【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条時政が武蔵支配を口に出し、畠山重忠が焦った深刻な理由
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条時政が武蔵支配を口に出し、畠山重忠が焦る場面があった。なぜ重忠が焦ったのか、詳しく掘り下げてみよう。
■北条時政と武蔵国
建仁3年(1203)の比企の乱後、平賀朝雅は京都守護として上洛した。朝雅は武蔵守を務めており、時政の娘婿でもあった。
平賀一族が北条一族と深い関係にあったことは、平賀義信(朝雅の父)が実朝の元服で加冠役を務めたことから明らかである。
ところが、朝雅が京都守護を務めると、武蔵守を兼ねることが困難になったので、時政が一時的に国務を担当することになった。
同年10月、時政は武蔵国の御家人に対し、忠誠を誓うように求めたのだ。これは、時政による武蔵支配の意思表示でもある。
武蔵国は畠山重忠ら有力な御家人が所領を持っていたので、時政の動きを歓迎しなかった。もちろん、それには理由があった。
武蔵国の御家人は、時政が政所別当に加えて、武蔵守を代行することに将来の不安を感じたのだ。時政に忠誠を誓わされたことも、不本意だったに違いない。
■武蔵国留守所総検校職
ところで、畠山重忠が持っていた武蔵国留守所総検校職が話題になっていた。留守所とは国衙に国司がいないため、在庁官人が職務(特に治安維持)を代行する役所だった。
武蔵国留守所総検校職とはそのトップのことで、代々、武蔵国の豪族である秩父氏が務めていた。秩父氏は武蔵国内の武士を統率、あるいは軍事動員する権限を得ることによって、大きな権力を持つようになった。
重忠以前、武蔵国留守所総検校職に任じられていたのは、河越重頼だった。河越氏は畠山氏と同じく、秩父氏の系譜に連なる豪族だった。
しかし、重頼は源義経の縁戚だったので、源頼朝から義経の追討命令が出されると、文治元年(1185)11月に所領を没収され、嫡男とともに殺害された。その後、重忠は武蔵国留守所総検校職の後任になったのだ。
■まとめ
当時、重忠の持つ武蔵国留守所総検校職が以前と比較して、どこまで有効だったのかは検討を要するのかもしれない。
しかし、重忠は時政が武蔵国の支配に関与することを非常に恐れた。そこで、ドラマのように、重忠と時政は対立的な様相を呈したのである。