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【卓球】代表選考の歴史「選考リーグ1位で出られないならどうしたら出られるんですか?」

伊藤条太卓球コラムニスト
1969年世界選手権ミュンヘン大会で優勝した日本男子チーム(写真:アフロ)

先日、パリ五輪の代表選考について疑問を呈する記事を書いたが、それに関連し、卓球における選手選考の歴史を考えてみたい。

卓球は、複雑で多様な競技であるため、選手の相性の要素が非常に大きい。今では言われなくなったが、過去にはプレースタイルごとの大雑把な傾向として、ショート型はロング型に強く、ロング型はカット型に強く、カット型はショート型に強いというジャンケンと同じ"三すくみ"の関係が常識だった時代もあった。

個々の選手にも同様に相性があるため、今でもあるレベル内での選手たちが総当たり戦をやれば、全勝する選手が出ることは希で、ひどい場合には全員が勝率5割程度に並んでしまうこともある。

そういう競技だから、相性の問題を越える圧倒的に強い選手がいるのでないかぎり、対戦相手を想定しないでは選手選考はできない。そのためもあり、日本では世界選手権の代表選手は、直前の全日本選手権(以下、全日本)の優勝者は無条件で選出されたものの、その他のメンバーについては強化責任者たちによって戦略的に決められてきた。

1952年世界選手権に日本が初出場した際には、全日本で前人未到の5度目の優勝を果たした藤井則和と、藤井の連覇に挟まれるように優勝していた林忠明が選出されたが、日本人初の世界チャンピオンの栄誉を得たのは「ひとりはカット型がいた方がよい」との理由で選ばれた、全日本ベスト8の佐藤博治だった。国内では藤井にも林にも歯が立たなかった佐藤は、世界選手権では藤井や林が敗れる中、団体戦でも13戦全勝し、無敗で通した。佐藤の勝因は、少し前に日本で開発され、外国選手には目新しかったスポンジラバーを使っていたためだった。

日本卓球史はその最初から、卓球における「実力」の持つ多様性と、それに伴う選考の難しさを物語っていたのだ。

戦略と公平性は両立しない。上の例で言えば、佐藤の選出は日本卓球界にとって大英断だったが、全日本で準優勝だったにもかかわらず選ばれなった中恒造にとっては悲劇だった。このレベルに達した選手ならだれでも自負があるから「出ていれば自分が世界チャンピオンになったはずだ」と思っても不思議ではないし、実際にそうだったかもしれない。それを否定する客観的方法はない。

こうした選考にまつわるエピソードは枚挙にいとまがない。

1954年世界選手権ロンドン大会では、田中利明は、直前の全日本決勝で荻村伊智朗にフルゲームで敗れて準優勝、代表選考リーグでも12勝3敗で荻村、富田芳雄と並ぶ同率1位だったが選考に漏れた。ヨーロッパに多かったカットマンに弱いというのがその理由だった。田中はあまりの悔しさに1週間眠れず、長谷川喜代太郎監督を訪ね「全日本準優勝で選考リーグで1位なのに出られないならどうやったら出られるんですか」と談判した。長谷川は「次の全日本で優勝するんだね」とだけ答えたという。

その言葉通り田中は翌年の全日本で優勝し、1955年世界選手権ユトレヒト大会で世界チャンピオンとなった。このとき、田中が優勝した全日本で準優勝だった選手が選ばれず、ベスト8だった荻村が選ばれた。荻村は飛びぬけて外国選手に強かったからだ。これに対して選ばれなかった選手の母体の理事が「負けたら責任を取れ」と理事長に迫ったという。

「日本は勝った。だが、判断をなじった人は責任をとらなかった。批判者とはえてしてそういうものである。人には責任をとれなどというが自分の見通しが狂ったときには口をぬぐう」(荻村伊智朗「私のスタンディング・オベーション」日本卓球株式会社刊)

荻村伊智朗 世界選手権金メダル12個 第3代国際卓球連盟会長
荻村伊智朗 世界選手権金メダル12個 第3代国際卓球連盟会長写真:アフロ

戦略的に選ぶと言っても、人間が選ぶ以上、どうしても好みが出るし、選手や母体との人間関係に引きずられる。それに関するトラブルもまた枚挙にいとまがない。

1967年世界選手権ストックホルム大会では、強化本部長の独断で、エースと目された高橋浩が外された。高橋は前回の世界選手権で中国から唯一人勝ち星を挙げ(荘則棟、張燮林)、直前の全日本で準優勝、年齢も25歳とピークにあり、外す理由がなかった。しかし、この選考に反対した強化スタッフは外され、男子監督だった荻村は女子監督を命じられた(荻村は大会後に辞任した)。

代わりに選出された若手を中心としたメンバーは、文化大革命によって中国が不参加の中、全種目優勝を果たす。しかし、練習相手として同行した2人の選手が、なぜか現地で男子シングルスと男子ダブルスに出場するという考えられないことが起きている。高橋を外しておいてほとんど実績のない選手を出場させていたのだ。なぜそんなことをしたのか、なぜできたのか、日本卓球史上、屈指のミステリーである。

「ショックで人が信じられなくなった」と語った高橋は、失意のうちに卓球界を去り、卓球に関する情報を遮断して仕事に専念し、34歳でシチズンアメリカの社長に上り詰めている。

中国が復帰した1971年世界選手権名古屋大会では、またも強化スタッフと強化本部長との間で選手選考をめぐる対立が起き、大会の4ヶ月前に強化スタッフ6人全員が辞任する事態になっている。結果、女子は中国を破って優勝し、男子は準優勝となっており、強化スタッフと強化本部長のどちらが正しかったかはわからない。そもそも、どのような結果であれ、対案を試して比較することができない以上、評価は推測の域を出ない。

1971年世界選手権名古屋大会
1971年世界選手権名古屋大会写真:山田真市/アフロ

こうした選考に関する幾多のトラブルを経て、次第に公平で客観的な基準が適用されるようになってきた。しかし、公平性が行き過ぎれば戦略を放棄することになる。勝つことを考えなくてよいのなら、その方が楽である。公平にさえすればどこからも苦情は出ないし頭を悩ます必要もない。知見すら要らない。「選んで」ないのだから責任もない。

その方針の最高峰が1997年世界選手権マンチェスター大会の選考である。全日本でベスト4に入った4人を代表とし、男女ダブルスと混合ダブルスの優勝ペアをそのままその種目の代表にするという前代未聞の選考だった。国際競争力も相性もへったくれもない、トーナメントでの一発決めで、戦略の入る余地のない機械的な選考だった。

当時の強化対策委員長は「どんな選手でも頑張ればチャンスがある」「戦型や年齢でチャンスを失うことはありません」「選手に夢を与える」と選考の意図を語った(「卓球レポート」1997年1月号)。

結果、”カミカゼ速攻”と他国から恐れられていた田崎俊雄が男子シングルスにエントリーされず、他国から「田崎が出なくてラッキーだけど、日本の考えは理解できない」と言われている。卓球史に残る珍事である。

”カミカゼ速攻”と他国から恐れられた田崎俊雄
”カミカゼ速攻”と他国から恐れられた田崎俊雄写真:築田純/アフロスポーツ

しかし、当時の状況を考えると、このような選考方法にした気持ちもわからないではない。日本の卓球は低迷期にあり、男女とも中国どころかベスト8に入ればよい方で、10年以上もメダルから遠ざかっていた。頭を悩ませて戦略を練り、各方面からの批判に耐え(どう選んでも批判は出る)、眠れぬ夜を過ごした末に「8位になりました」では、労力に見合わない。

戦略的選考が功を奏した例もある。

2003年世界選手権パリ大会では、西村卓二・女子監督は、ほとんど実績がなかった当時14歳の福原愛を大抜擢した。当然、多くの批判にさらされたが、福原は日本選手でただひとりベスト8に入り、2004年アテネ五輪でも日本選手として最高のベスト16入りした。名将と言われた西村には、福原の潜在能力を見通す眼力と、何よりも覚悟があった。

福原のアテネ五輪での活躍は、卓球の注目度を一変させ、その後の卓球界を大きく変えた。しかし、福原の抜擢の陰で選手生命を絶たれた選手たちがいたこともまた事実である。長く現場で選手を育ててきた西村はその痛みも熟知していたはずだ。

2003年世界選手権パリ大会での福原愛と西村卓二
2003年世界選手権パリ大会での福原愛と西村卓二写真:築田純/アフロスポーツ

その後、試行錯誤を経て選考方法は改良されていき、近年では、①世界ランキング、②全日本優勝者、③総当たりによる選考会、④主要国際大会での戦績、⑤協会推薦 が混合した形になっている。これらのうち、トーナメントの一発決めは②の全日本優勝者だけであり、卓球の多様性、公平性、戦略を注意深く考慮したバランスの取れた選考方法となっている。

これらの基準のいずれかをクリアしてやっと代表入りしても、団体戦の場合は監督が戦略的に出場選手(簡単に言えば勝てそうな選手)を決めるので、現地まで行っても結局試合に出られずに終わる選手も出てくるが、それは仕方がない。それが卓球における公平性の限界である。

こうした選考の歴史を踏まえてパリ五輪の選考を見ると、かつてなかった異様なものに映る。

従来、「選考会」と名の付く大会は、選手の相性による戦績のバラツキを考慮し、総当たり戦を行うことで総合的な実力を測ってきた。これに対してパリ五輪の選考会は、1回負けたら終わりのトーナメント戦だけで行われる。そのかわり、6回にわたって行うことで総合的な実力を測る建前だ。

エンターテイメントとしてなら、総当たり戦よりも「負けたら終わり」のトーナメント戦の方がわかりやすくスリルがあるし、6回もやれば興行の点でも良い。つまりパリ五輪の選考会は、日本卓球の歴史上に例のない、興行を重視した選考会となっているのである。

加えて、世界ランキングという対外的実力の指標があるのに、それを使わずに選考するという、近年希に見る戦略性のない選考にもなっている。

さらに異様なのが、6回行われる選考会のうち、第1回は今年9月に行われた世界選手権成都大会の選考を兼ね、男女ともにベスト4に入った4人を代表としたことである(これに全日本優勝者を加えた5人が代表となった)。

恐怖の”一発決め”の選考によって2022年世界選手権に落選した石川佳純
恐怖の”一発決め”の選考によって2022年世界選手権に落選した石川佳純写真:西村尚己/アフロスポーツ

1997年以来の”驚愕の一発決め”である。1997年とは違って中国に次ぐ世界2位につけている現状で、一体何を考えているのだろうか。結果、世界ランキングが日本で2番目の早田ひなと、3番目の石川佳純が準々決勝で対戦する組み合わせ(トーナメント戦である全日本の戦績から”公平に”決められた)となり、石川が落選した。男子でも、世界ランキングが日本選手最高位の4位で、結果的に中国から2勝を挙げることになる張本智和でさえも落選する可能性があった。張本といえども、必ず勝てるわけではないからだ。あり得ない選考方法である。

公平性の美名のもとに戦略を放棄し、その実、興行を優先するという未曽有の状態に日本卓球界は変貌しつつある。この先、どんなことになるのか不安で仕方がない。

卓球コラムニスト

1964年岩手県奥州市生まれ。中学1年から卓球を始め、高校時代に県ベスト8という微妙な戦績を残す。大学時代に卓球ネクラブームの逆風の中「これでもか」というほど卓球に打ち込む。東北大学工学部修士課程修了後、一般企業にて商品設計に従事するも、徐々に卓球への情熱が余り始め、なぜか卓球本の収集を始める。それがきっかけで2004年より専門誌『卓球王国』でコラムの執筆を開始。2018年からフリーとなり、執筆、講演活動に勤しむ。著書『ようこそ卓球地獄へ』『卓球語辞典』他。NHK、日本テレビ、TBS等メディア出演多数。

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