【深掘り「鎌倉殿の13人」】結城朝光の危機を救った三浦義村の驚くべき名案とは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の28回目では、結城朝光が危うく討伐されそうになった。朝光はどうやって危機を脱したのか、詳しく掘り下げてみよう。
■三浦義村に相談する
『吾妻鏡』正治元年(1199)10月25日条によると、結城朝光は源頼朝の死後に「忠臣は二君に仕えないという」と言ったので、これを聞いた景時は「けしからんことだ」と息巻いて、朝光を討とうとした。朝光の言葉は、「頼家に仕えたくない」と受け取られたのだろう。
危機に陥り、周章狼狽した朝光は、親友の三浦義村に相談することにした。まず、朝光が言うには、父の政光が亡くなった際、所領を受け継ぐことができなかったという。
ところが、頼朝に仕えてから所領を与えられ、厚恩を蒙ったという。そのような意味で、朝光は「忠臣は二君に仕えないという」と言ったのだが、景時はこれを讒訴したと、経緯を義村に説明した。
義村は非常に憤慨して、景時の讒訴によって、悲惨な目に遭った御家人がなんと多いことかと嘆いた。しかし、景時を討つべく戦いを仕掛けたら、大変なことになるとも考えていた。大変なことというのは、東国の御家人を巻き込んだ大争乱になるということだろう。
■義村らの名案
やがて、義村のもとには、和田義盛、安達盛長がやって来た。2人は景時の非道を訴える訴状を作成して、頼家に裁許を仰げばいいと助言した。すべてを頼家の判断に託すという作戦である。
訴状を作成したのは、かねて景時に恨みを抱いていた中原仲業だった。正治元年(1199)10月28日、鶴岡八幡宮には多数の御家人が集まった。そして、66名もの御家人が景時の非道を訴える訴状に署名し、これを大江広元に託したのである。
広元は、頼家に訴状を差し出すことを躊躇した。景時は頼朝に仕えた有能な御家人で、幕府成立の立役者だったので、なんとか和議をまとめようと模索していたのだ。しかし、和田義盛が早く頼家に見せるよう詰め寄ったので、ついに応じたのである。
頼家は訴状を一見して、景時に弁明するよう求めた。結局、景時は一族を引き連れ、相模国一宮へと下向した。その後、鎌倉にあった景時の屋敷は破壊され、永福寺に寄進されたという。こうして、景時の没落は決定的になったのである。
■まとめ
景時は朝光を討とうと策略を巡らしたが、それは失敗に終わった。それどころか、過去の所業(御家人を讒訴したこと)が問題視され、東国の御家人から総スカンを食らった。彼らが連署した訴状は、その気持ちのあらわれである。さらに景時は鎌倉の屋敷も失ったので、御家人としての地位を失い、完全に没落したのである。