ルポ「ヘブロン――第二次インティファーダから20年――」(第6回)
【「殺菌された」地区】
「沈黙を破る」スタッフのイド・イブンパズは、ツアー参加者たちをヘブロン郊外にある入植地「キリヤット・アルバ入植地」へ案内した。敷地の端から、パレスチナ人地区が見下ろせた。
「あそこに青と白のテントがありますね」と、イドは入植地に隣接するパレスチナ人の畑の一角を指差した。
「あれは入植地の前哨基地です。パレスチナ人の私有地ですが、入植地たちはそこをユダヤ教の礼拝所として使っています。パレスチナ人の土地に建てられているのです。これがパレスチナ人の土地を奪う手段の一つです」
イドはこの地区でイスラエル当局が進めようとしている「計画」についてこう説明する。
「当局と入植者の計画は、パレスチナ人の畑の向こうに見えるギバット・ハアボット入植地と、キリヤット・アルバとを結ぶことです。この地区をイスラエル人だけが通行できるようにしたいのです。つまりこのキリヤット・アルバ入植地とヘブロンの中心街を結ぶ回廊を作り、そこをイスラエル人だけの地域にしたいのです」
「私がここで兵役も就いていた時にやっていた事を、兵士たちが今もやっています。
ユダヤ教の休日の土曜日と祭日は、宗教的なユダヤ人は車を運転できないので、礼拝所のある向こうのハザン入植地まで歩かなければなりません。マクペラの洞窟で祈るため、そのままヘブロン中心街まで歩く者もいます。兵士たちはその入植者をエスコートしなければなりません。入植者が歩く場所にパレスチナ人を入れないためです。軍ではそれを『殺菌された地区』と呼びます。それはパレスチナ人が排除された地区ということです。ただ、ここの全地域が『殺菌された地区』になるのではなく 入植者が歩く地域だけです。入植者たちはこの道を『自分たちの道』だと言います。この兵士の任務を『土曜日の警戒』と呼んでいました」
【入植者の暴行にさらされる入植地の隣人たち】
入植者の「祈祷所」テントが置かれた畑の所有者、アベド・アルジャバルは、周辺を取り囲む入植地が見渡せる場所に私を導いて説明した。
「この一帯がキリヤット・アルバ入植地です。向こうがハル・スィーナー入植地、こっちはギバット・ハアボット入植地、そしてここはイスラエル警察です。
あのアスファルトの道路から、こちら側まで全て私たちの土地です。しかし、畑の向こうの道路も、通ろうとすると子どもでも入植者に殴られます。私たちは全く通れません。私たちの土地を奪っているのです。これら入植地も武力で奪った土地です。この道路はパレスチナ人の車が通れません」
「土地はパレスチナ人が売ったのですか?」
「いいえ、武力で奪われたのです。1センチたりとも売っていません。最初に来たユダヤ人らは下の土地に住み始めました。この土地を所有するお年寄りに大金を払い、99年間、借りたのです。当初は軍用地として借りられ、その後に武力で全て取られました。売られたことはありません」
アベドの家が入植者たちに攻撃され始めたのは、2006年、あるパレスチナ人青年がキリヤット・アルバ入植地に侵入し、入植者を殺害した直後からだった。
「200〜300人の入植者が家を襲撃し、銃やナイフを持って家に侵入して来ました。1階の戸が開けられず、2階から侵入して来たのです。私は1階にいました。家を爆発させるつもりで、満タンのガスボンベを9本用意していました。子どもら他の家族は外に避難させていたので、家には私一人でした」
幸い、イスラエル国境警察が来て、入植者たちを追い出し、難を逃れた。しかし入植者の攻撃はその後、ずっと続いている。
「昨日も一昨日も家の外から石が飛んできました。ガラスが割られたので、ナイロンを張りました。毎晩のように あそこから家に石が投げられます。ほぼ毎日です」
アベド・アルジャバルの娘で、近所に嫁いだアレジ・アルジャバルは自宅の屋上で、自宅前の道路を通る入植者たちを見下ろしながら言った。
「私だけでなくこの地区の人たちは皆、入植者を怖れています。ほとんどが武装しているからです」
「この辺りの店は全て閉まっています。木・金・土曜日は入植者がイブラヒム・モスク(マクペラ洞窟)に下りて行きます。私の家の両側と上側を入植者が通り、私たちは囲まれるかたちになります。ユダヤの祭日中は3〜4日間ずっと、入植者がここを通るため、私たちは外出禁止となります」
「私たちの家は 入植者が礼拝に行く唯一の通り道にあるため、投石、罵り、私の宗教への侮辱など様々な攻撃にさらされます。子どもが入植者の車に轢かれることも多く、自分たちを守るには、戸や窓を閉め切り家にこもるしかありません。窓にも戸にも網を取り付けています」
「子どもたちの学校が休みの木・金・土曜日には、子どもたちは外に遊びに行きたがりますが、私は子どもたちを家に閉じ込めます。子どもたちも暴行や罵りを受けるため、外に出ることを怖がります」
アレジの家から父親アベド・アルジャバルの家までは数百メートルの距離だが、アレジにとって、その実家に帰る道中が怖い。
「何より家を出ることがとても怖いです。『たどり着かないかもしれない』と思いながら、早足で歩きます。入植者の攻撃が怖いんです。歩いている時に 水をかけられたり、罵られたり、石を投げられたりします。最近は靴を投げられました。尿ビンを投げつけられたこともあります。近所の人たちも同じ目に遭っています。外出は恐怖です。出かける時は、とても心配で 精神的に疲れます」
【兵士の暴行を受ける子ども】
アレジが最も恐れるのは、子どもたちがイスラエル兵士や入植者たちから暴行を受けることだ。
「一度 息子の下校が遅れました。学校は午後1時半に終わるのですが、1時45分になっても帰って来なかったので、私は嫌な予感がしました。
近くの基地の兵士らが石を投げた少年を追っていました。その少年は逃げ、そこにいた息子が疑われました。息子は兵士4人に『さっきの子はどこだ?』と聞かれ『知らない』と答えました。すると、息子は顔を平手で殴られ、腹や背中を蹴られました。近所の人たちが『息子さんが兵士に殴られている』と知らせに来ました。私は礼拝用の服を着て走って行くと、息子は地面に倒れ、腹や背中を蹴られていました。その夜、息子は痛みで眠れず、私が薬を飲ませたり、遅くまでコーランを読み聞かせたほどです。頬に平手の跡が3日間残りました。怒りと悲しみと心の痛みです。自分の内でどうしようもない痛みを感じます」
「まだ話していないことがありました。金曜日や土曜日に、兵士らが勝手に家の屋上に上がります。子供たちのブランコに乗って、夜中の12時や1時まで居座り、去る時は『入るぞ!』と言わんばかりに、毎度、ドアを叩いて行きます。子どもに恐怖感を植え付けたいのです。
下の息子はお遣いに行ったとき、入植者の車に轢かれました。例えば投石があった時など、兵士たちによく家の中を調べられます。好き勝手に私たちや近所の家に入って来て調べるんです」
アレジの長男ワーセム(当時14歳)に「登下校や外で遊ぶとき、兵士や入植者からどのような攻撃を受けますか?」と訊いた。
「外に出ると、入植者がからかってきたり、棒を持って追いかけて来たりします。あるとき、入植者に車から呼び止められ、『こっちに来い』と言われました。車に近づくと、胡椒を顔にかけられました。もし頭をよけていなかったら、思い切り目に入っていました」
【消防車も救急車も立入禁止】
雑貨店の店主、バッサム・アルジャバルは、家の修復工事を中止したままだった。
「建設資材がなく、この家は2年間、工事が中断したままでした。家の前の道路はイスラエル当局によって車を入れることが禁じられているため、建設資材を運び入れられないためです」
「資材をロバに乗せて持って来ようとしたら、ロバにライトが付いていないなどの理由で通してもらえませんでした。大人が運ぶと没収されるので、幼い子どもに運ばせるしかありませんでした。2週間前に建設資材を手で運び入れて、やっと建設を再開しました」
車の通行禁止は、消防車や救急車も例外ではない。
「私の店が入植者たちによって燃やされたとき、消防署はすぐ近くなのに、軍は消防士を通さず、店を燃えるままにしました」
「娘が家の近くで入植者の車に轢かれたとき、イスラエルの救急車は娘を運ばなかったので、パレスチナの救急車が来るのを待ちました。しかし救急車はイスラエル軍の検問所を通れませんでした。目の前で娘が轢かれても、何もできないのです。結局 検問所の外まで娘を運び、パレスチナの救急車に乗せて病院に運びました」
ヘブロンでは、イスラエル軍の検問所でパレスチナ人が射殺される事件がしばしば起こった。イスラエル側は、「検問所でナイフを持って兵士を襲おうとしたため、射殺した」と発表する。しかし、バッサムは、それが「仕組まれる」現場を体験した。
通学中の女の子が、バッサムの家の近くで「投石」の容疑でイスラエル兵に捕らえられた。
「イスラエル兵はナイフを用意していました。『女の子が攻撃しようとした』と見せかける証拠を撮るつもりだったのです。こうして『殉教者』(抵抗運動でイスラエル側に殺害されるパレスチナ人)の責任ばかりが問われます。イスラエル側が主張する『子どもたちがナイフで攻撃しようとした』という話は嘘です。子どもを検問所で止め、暴行し、自分を守ろうとするところを撮影し、『兵士を攻撃した』と言うのです」
「兵士や入植者の攻撃の目的は何だと思いますか?」と訊くと、バッサムは言った。
「私たちをこの地区から追い出すことです。この地区はキリヤット・アルバ入植地と、ヘブロン市の中心街にあるイブラヒム・モスク(マクペラ洞窟)との間にあります。イスラエル側は私たちを追い出し、両地区をつなげたいのです」
【入植者への感情】
ユダヤ人入植者やイスラエル兵の暴行に怯えながら暮らす入植地周辺のパレスチナ人たちは、「イスラエル人」にどのような感情を抱いているのだろうか。
毎日のように、家を入植者たちに襲撃されるアベド・アルジャバルは、心情をこう吐露した。
「自分の家で暮らしているときに、外から人がやって来て、子どもを傷つけ苦しめたら、その相手を殺すだけでなく、消したいと思います。ユダヤ人全員ではありません。家を襲撃する者たち全員です。私は彼らの所には近づきません。彼らが私たちを攻撃しに来るのです」
アレジの息子、ワーセムに、「毎日、イスラエル兵や入植者の攻撃を目の当りにするのはどんな気持ちか?」と訊いた。
「自分や他の人が攻撃されると、攻撃し返したいと思いますが、できません。撃たれてしまいますから」
「どうやって、その怒りの感情をコントロールしているんですか?」
「怖いからです」
バッサムは、子どもたちがこの状況に適応してきていると言った。
「たしかに攻撃されれば、恐怖を感じ心理的な影響を受けます。第二次インティファーダの初期の頃、子どもたちは怖れていました。しかし、この現実を生きる中で、それを“普通”と感じるようになったのです。外部の人は、入植者と兵士を見て、『こんな所では生きられない』と言います。しかしここの子どもたちは、兵士や入植者の脅威に慣れ、覚悟ができています。兵士がM16銃を持っていても、子どもたちは怯(ひる)みません」
【状況を悪化させたオスロ合意】
ユダヤ人入植地に隣接し、入植者たちの暴力にいつも怯えながら暮らすパレスチナ人住民たちは、この現状を生み出す出発点となった「オスロ合意」を今どう見ているのだろうか?
「昨日は、今日よりよかったです」とアベド・アルジャバルは表現した。
「全てのパレスチナ人にとって、オスロ合意から今日まで状況が悪くなり続けているからです。私たちの生活は何もかも味気なくなってしまいました」
「あの合意は、大きな害を与えました。どこの国に政府が二つありますか?ここには政府が二つあります。入植者に攻撃されたとします。パレスチナの警察に連絡しても、『そこには行けません』と言われます。イスラエルの警察はそもそもパレスチナ人の電話に出ません」
一方、バッサム・アルジャバルは、「オスロ合意によって、パレスチナ問題は50年後退しました」と言い切った。
「H1 H2という区分により、問題が見えなくなりました。オスロ合意の前は、外出禁止令はヘブロン全域に出され、市内全体のパレスチナ人が同じ苦しみを味わいました。しかしオスロ以降、道路を封鎖され、この地区のパレスチナ人は他の地域のパレスチナ人から切り離されてしまいました」
「パレスチナ人住民にとってこんなに生活が困難な地区から、出てしまいたくないですか?」と問うと、アベドが答えた。
「イスラエル側から、家を出ることと引き換え、何十億シェケルという大金を提示されました。無記入の小切手を見せられ、『家と土地を手放せば何でもやる』と言われました。 私たちが求めるのは金ではなく、“安らぎ”です。“安らぎ”は自分たちの土地にしかありません」
(続く)
【注・写真は全て筆者撮影】