【深掘り「鎌倉殿の13人」】再検証。牧氏事件の首謀者とされる牧の方は悪女だったのか。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、牧氏事件が描かれたが、その首謀者は牧の方だった。牧の方は悪女だったのか、改めて詳しく掘り下げてみよう。
■牧の方の来歴
牧の方は生没年不詳。父は牧宗親といい、駿河国大岡牧(静岡県沼津市)を所領としていた。のちに、北条時政の妻となった。しかし、先妻の子だった北条政子・義時姉弟は、牧の方と良好な関係ではなかったといわれている。
寿永元年(1182)11月、源頼家を生んだばかりの政子に対して、牧の方は政子の夫・源頼朝が愛人の亀の前と浮気していることを伝えた。
政子はこの話を聞いて激怒し、牧の方の父の牧宗親に対して、亀の前の住む屋敷(伏見広綱の邸宅)を破却するよう命じた。驚いた亀の前は、鐙摺(あぶずり:神奈川県葉山町)の大多和義久邸へ逃げこんだ。
頼朝はこの話を聞いて激怒し、宗親を呼び出して髻を自らの手で切った。時政は頼朝が宗親に恥辱を与えたので、兵を伊豆に引き上げた。一方、政子は怒りが収まらす、伏見広綱を遠江国への流罪とした。
この事件がどうなったか不明であるが、単に頼朝の浮気が発覚して大問題になっただけでなく、北条一族をも巻き込んだ大騒動になったのはたしかである。この一件が牧の方を悪女としてのイメージを植え付けた。
■牧氏事件への関与
元久2年(1205)閏7月、時政と牧の方は源実朝を暗殺し、娘婿の平賀朝雅を新将軍に擁立しようとしたが失敗した。『吾妻鏡』によると、牧の方は事件の首謀者とされている。
ドラマの中では、宮沢りえさんが演じる牧の方が時政を盛んにけしかけていた。時政は失敗に終わるかもしれないと思いつつも、謀反に踏み切っていた。そもそも義時との関係が悪化していたので、苦渋の決断である。
しかし、実際は大騒動になる前に、時政らの動きは封じ込まれた。これにより時政は失脚し、鎌倉から伊豆へと追放された。以後、『吾妻鏡』などにも姿を見せなくなる。
■まとめ
牧氏事件などといわれるように、この事件は牧の方が時政をそそのかした張本人とされているが、それにはいささかの疑問が残る。そもそも牧の方の関与の記述が乏しく、しかも実行前に防がれた。
事件の本質は牧の方や時政の陰謀にあるのではなく、時政の勢力拡大を恐れた政子と義時が先手を打って、その動きを封じたのではないだろうか。その際、時政を憚って、責任の一端を牧の方に押し付けたと考えられる。
つまり、本来は牧氏事件と称するものではなく、政子・義時によるクーデターとすべきだろう。同時に、牧の方が悪女というのも疑わしい。