検察は説明責任を果たすのか ~ゴーン氏事件、最大の注目点は「西川社長の刑事責任」
平成最後の「年の瀬」を迎えつつあった日本社会を大きく揺るがし、国際的な注目を集めたカルロス・ゴーン氏の事件、東京地検特捜部による“突然の逮捕”以降、数々の“衝撃”が繰り返されてきた。
その衝撃の都度、その「意味」と「影響」について伝えてきた(【ゴーン氏事件についての“衝撃の事実” ~“隠蔽役員報酬”は支払われていなかった】など)。
それらの“衝撃”の中で、「今後日本社会に与える影響」という面で最も大きなものは、東京地裁が、特捜部の勾留延長請求を却下し、その決定に対する検察官の準抗告を棄却した決定について、その理由を公表したことである。
日本の裁判実務の中心にある裁判所(東京地裁)が、「検察の正義」の象徴とも言える東京地検特捜部の事件に対してとった対応は、「当然のこと」ではあるが、従来、極端に検察寄りであった日本の裁判所には考えられないものだった。「飼い犬に腕を食いちぎられた」ように思える「仕打ち」を受けて、検察幹部は「激怒」し、急遽ゴーン氏を特別背任で再逮捕するという、対抗措置に及んだ(【「従軍記者」ならではの“値千金のドキュメント” ~ゴーン氏事件で「孤立化」を深める検察】)。
ゴーン氏が東京拘置所で勾留されたまま、新たな年を迎え、検察がまず直面するのは、事件に対する「説明責任」の問題だ。これまで、検察は、社会的影響がいかに重大でも、事件について、社会への「説明責任」を果たすことは全くなかった。
ゴーン氏の事件については、国際的にも注目を集めていることに配慮したのか、東京地検次席検事が、外国メディアの参加も認める「記者会見」を何回か行ってきた。しかし、撮影・録音は一切禁止、しかも、事件の内容に関すること、検察の対応や処分の理由に関することについては、「答えを差し控える」として説明を拒絶するなど、単に、記者を集めて質問を受ける場を作ったに過ぎず、凡そ「記者会見」と呼べるようなものではなかった。
このような検察の姿勢に対して、海外のメディアのみならず、国内のメディアからも厳しい批判が行われた。
準抗告棄却決定の理由を独自に公表するという、従来の裁判所では考えられなかった対応がとられたことで、これまで個別の刑事事件についての説明をすべて拒絶してきた検察の理屈も揺らぐことになる。
今年、まず検察が直面する「説明責任」は、「検察の正義」を中心としてきた日本の刑事司法の構造にも関わる問題だと言える。
ゴーン氏事件に関する最大の注目点としての「検察の説明責任」
検察は、これまで刑事事件の判断について、公式の説明を行うことは一切なかった。不起訴の場合、不起訴理由は示されないし、不起訴記録も開示されない。起訴した場合に、「従来の同種事件への対応とは異なるのではないか」と問われても、その理由を説明することはない。検察の判断は、刑事裁判で主張すること以外は、一切に明らかにしない。
そのような検察の姿勢の法的根拠とされてきたのが、「訴訟に関する書類は、公判の開廷前には、これを公にしてはならない。」という刑訴法の規定(47条本文)だった。これは、訴訟に関する「書類」の非公開の規定だが、それを、「刑事事件に関する公式の説明を拒否する理由」にもしてきた。そして、同条には「但し、公益上の必要その他の事由があつて、相当と認められる場合は、この限りでない。」という「但し書」があるが、ほとんど無視されてきた。
国会で、個別の刑事事件についての質問を受けた時も、刑訴法の同じ規定を盾に、法務省当局が「個別の刑事事件についての答弁は差し控える。」と答弁してきた。そして、その答弁の後に必ず付け加えられるのが、「なお、一般論として申し上げれば、すべての刑事事件は、法と証拠に基づいて適切に処理されている。」という言葉だった。それは、
個別の刑事事件について検察が行う判断と処分は、すべて「適切」であり、それが「正義」なのだから、それ以上に説明する必要はない
という考え方を端的に示すものだ。
検察はなぜ説明責任を負わなかったのか
このように、検察は、刑訴法47条本文の規定を盾に、個別の刑事事件についての一切の公式の説明を拒み、その主張は、すべて刑事裁判の場で行うという姿勢を貫いてきたのであるが、その「検察の刑事裁判での主張」は、「99.9%の有罪率」の下で、ほとんど全てが裁判所に受け入れられてきた。結局、「検察の判断」は、必然的に「刑事司法の最終判断」になるのだから、途中で説明する必要はないということになるのである。
そのような構図は、「伝統的な刑事司法の世界」を前提にしている。刑事司法の対象としての「犯罪」は、基本的には、殺人・強盗・窃盗などのように、社会、経済の中で一般的に生じる事象とは異質な「犯罪行為」そのものであり、処罰すべきか否かを判断する余地はない。犯罪があれば、犯人を処罰するのが当然であり、その犯人が誰なのか、その証拠があるのか、そして、その犯罪の情状つまり、「犯罪に至った事情」を考慮して、「処罰の程度」を判断するのが刑事司法の役割だ。
そういう「伝統的な犯罪」についての検察の役割は、「犯人性」と「犯罪の情状」を証拠によって認定することだ。それは、「経験豊富な刑事実務家の集団である検察組織」の適切な判断に委ねればよいともいえ、その理由を裁判外で説明を求められることは少ない。
しかも、そのような「伝統的な犯罪」は、犯罪者が道義的・倫理的非難を受ける「個人的事象」であり、その犯罪者が逮捕され、起訴され、有罪判決を受けることは、「社会的関心」の対象にはなるが、それが直接、社会や経済に与える影響はほとんどない。
特捜事件が社会に与える重大な影響と「説明責任」
しかし、特捜検察が扱う事件は、そのような「伝統的犯罪」とは異なる。一般の社会や経済で起きる事象について、政治家・高級官僚・経済人・企業人など、社会の中心部で活動する人間が摘発の対象とされ、社会生活や経済活動に対しても重大な影響を与える。しかも、特捜部は、殺人事件のように「発生した事件の犯人を検挙する」というのではなく、検察独自の判断で、刑事事件としての立件を判断する。そのため、同種の事象が世の中に多数存在している中で、なぜそれだけを刑事事件として取り上げたのか、他の事象や他の人間の行為とはどう違うのか、について疑問が生じることになる。
例えば、2006年のライブドア事件で東京地検特捜部が行った「突然の強制捜査」は、翌日、東証が1日システムダウンするほどの重大な経済的影響を与えた。2009年の陸山会事件で、当時の野党第一党であった小沢一郎民主党代表の秘書3人が政治資金規正法違反で逮捕された事件は、その後の日本の政治にも重大な影響を与えた。これらの事件については、他の同種の事象との比較で、なぜ、それらの事件だけを刑事事件として取り上げたのかについて、検察の「説明責任」が問題とされた。
しかし、これら特捜事件についても、検察が説明責任を果たすことは全くなかった。特捜検察と癒着した「司法記者」を中心とするマスコミは、検察に公式の説明責任を求めようとせず、説明責任を果たさない検察を批判することもほとんどなかった。
一方で、記事には、しばしば匿名の「検察幹部」が登場する。マスコミは、「公式な場での説明は一切拒絶する」という検察の姿勢を受け入れ、記者達の取材源である「検察幹部」が非公式に述べた意見や考え方をそのまま、匿名で無批判に伝えるというのが従来のやり方だった。
そのようなマスコミの姿勢もあって、「検察の正義」の象徴とも言える特捜事件についても、社会への説明責任を一切果たさない検察の姿勢が容認されてきたのである。
裁判所が「説明」を行ったことの意義
このような検察の姿勢と同様に、裁判所も、個別の刑事事件に関することは、公開の刑事裁判の場以外では一切明らかにしなかった。公判期日が指定された時点で、被告人氏名と罪名を公表する程度だった。公判が始まる前の段階で行われる、勾留、勾留延長、保釈等の身柄拘束に関する決定の内容を裁判所が明らかにすることも全くなかった。「個人的な事象」そのものと言える被疑者・被告人の身柄拘束に関する裁判所の判断は公にするべきではないと考えてきたのであろう。
しかも、そのような「一切公にすることのない、身柄拘束に関する決定」は、ほとんどが、検察官の意見・主張をそのまま容認するものだった。最近では、勾留却下率が上昇するなど、裁判所の姿勢も従来とは変わりつつあるとは言えるが、その多くは、比較的軽微な一般的な刑事事件であり、検察の捜査・処分にさほど大きな影響はない事件が大部分だ。少なくとも、最高検察庁を含む検察組織全体で意思決定した上で捜査・処分を行う特捜事件で、裁判所が、身柄拘束について、検察の意見に反する決定を出すということは、従来の裁判所の姿勢からは絶対に考えられないものだった。検察は、一般的な事件はともかく、特捜事件については、常に裁判所が検察の判断を容認してくれると考えていたはずだ。
それだけに、今回、東京地裁が出したゴーン氏・ケリー氏についての勾留延長請求却下と、それを不服とする検察官の準抗告を棄却する決定(延長請求却下は一人の裁判官の決定、準抗告棄却は3人の合議体による決定)は、検察にとっては衝撃だったことであろう。そして、それに続いて、裁判所は準抗告棄却理由を公表し、その理由は「有価証券報告書の虚偽記載容疑での1回目と2回目の逮捕について、事業年度の連続する一連の事案。捜査の内容などを踏まえれば、争点や証拠の重なりは抽象的とは言えない。」というものだった。検察は、裁判所の対応は、5年分の虚偽記載と3年分の虚偽記載の関係について検察の主張を正面から否定するものであると受け取り、許し難いものと考えた(「直近3年分の虚偽記載での再逮捕」に根本的な問題があることは、再逮捕直後から指摘してきた【ゴーン氏「直近3年分再逮捕」なら“西川社長逮捕”は避けられない ~検察捜査「崩壊」の可能性も】)。
勾留延長請求への裁判所の対応から予想されたことだったが、東京地裁は、直後にケリー氏側が出した保釈請求を許可し、それを不服とする検察官の準抗告も棄却した。特捜事件の否認事件については保釈を認めず、長期の身柄拘束を容認してきた従来の裁判所の対応からは考えられないものだった。
個別の刑事事件について、公判廷外では一切公式の情報開示も説明も行わないという検察と同様の姿勢をとってきた裁判所が、「説明」を行うという異例の対応をとったことは、刑訴法47条を盾にとり、一切の説明を拒絶してきた検察に対して、大きなプレッシャーとなる。それに加え、裁判所は、特捜事件について、勾留延長請求却下、保釈許可で、検察の主張を立て続けに排斥した。それは、従来、著しく検察寄りだった裁判所の姿勢を大きく変える契機になる可能性もある。
ゴーン氏事件についての検察の説明責任
勾留延長満期の1月11日にゴーン氏が特別背任で起訴され、今回の事件の起訴が終了するとすれば、検察は、勾留延長請求を却下され、処分が保留された「直近3年分の虚偽記載」の事実について刑事処分をどうするか、という問題に直面することになる。【前掲記事】でも述べたように、この3年分のうち「直近2年分」については西川廣人社長がCEOであり、有価証券報告書の真実性について直接責任を負う作成・提出者である。ゴーン氏・ケリー氏の虚偽記載罪の刑事責任を問うのであれば、その前提事実である西川氏の責任について判断することは不可避だ。
西川氏は、11日19日のゴーン氏逮捕直後の記者会見で、「残念という言葉をはるかに超えて、強い憤り、落胆を強く覚えている。」とまで言い切った。西川氏は、ゴーン氏の刑事責任追及に向けての日産側と検察との協力の中心人物であり、今なお、日産の唯一の代表取締役の立場にある。ゴーン氏らの逮捕事実とされた有価証券報告書の虚偽記載について、西川氏の刑事責任の有無は、今回日産で起きたこと全体を、企業のガバナンス等の観点から評価する上においても、無視できない重要な問題だ。
「個別の刑事事件についての説明」について裁判所に外堀を埋められた検察が、説明責任を果たすか否か、「検察の正義」が問われる。