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2017年宗教改革から500周年(その3)ルターゆかりの地ヴィッテンベルクからアイスレーベンまで

シュピッツナーゲル典子在独ジャーナリスト
ルターハウスにて妻カタリナとルターの肖像画(c)norikospitznagel

昨年2回にわたり、ルターゆかりの地エアフルトヴァルトブルク城・ワイマールを紹介しました。

今回は、16世紀にヨーロッパを揺るがした宗教改革の始まりの街ヴィッテンべルクから巡ります。ルターは、ローマ・カトリック教会が資金調達のために販売した贖宥状(しょくゆうじょう・以下免罪符)を批判し、信仰の本来の意味を問いかけた「95か条の論題」をヴィッテンべルク城教会の扉に提示しました。ルターの軌跡巡りは、ライプツィッヒ、ハレ、アイスレーベンへと続きます。(画像は特別許可を得て撮影しました)

宗教改革の始まった街・ヴィッテンベルク

今回のルターの軌跡を巡る旅はドイツ北部ザクセン州エルベ川沿いにある小さな街ヴィッテンベルクからです。神学部の学生だったルターは、1508年この街にやって来ました。

市庁舎とルター銅像、右ルターが説教をしたマリエン教会(c)nspitznagel
市庁舎とルター銅像、右ルターが説教をしたマリエン教会(c)nspitznagel

ヴィッテンベルクで見逃せないスポットは、ヨーロッパの歴史とキリスト 教世界を大きく変えた記念建造物として、1996年に世界遺産に登録された以下の建造物です。

95か条の論題が公提示されたヴィッテンベルク城教会、ルターが説教をした聖マリエン教会、ヴィッテンベルク大学校舎として使われ、かつルター家族が住んだルターハウスが、それらです。

ルターハウス内にある当時の大学講義室(c)norikospitznagel
ルターハウス内にある当時の大学講義室(c)norikospitznagel

宗教改革のきっかけとなったのは、ローマ・カトリック教会の販売した免罪符でした。ルターは、この免罪符を購入すれば、「現世の罪が許され、天国に行くことが出来る。または、故人のために買えば、その人も救われる」という声明に異論を唱えたのです。

当時の背景は複雑ですが、マインツ大司祭アルブレヒトはローマ・カトリック教会の総本山だった「サン・ピエトロ大聖堂」の改修工事のため資金繰りに窮していることを理由にあげ、免罪符を販売して資金集めを目論んだのです。

アルブレヒトは、ローマ教皇に大聖堂改修工事費用として献金を捧げ、それと引き換えに免罪符販売の独占権を獲得し、私腹を肥やしていったのです。免罪符は、瞬く間にドイツ内で広まったといわれています。

95か条の論題を提示したヴァルトブルク大学城教会の扉(c)nspitznagel
95か条の論題を提示したヴァルトブルク大学城教会の扉(c)nspitznagel

これに対し、免罪符に疑問を持ったルターは人々の信仰心がゆがめられてしまうと批判したのです。

そこでヴィッテンベルク大学の神学部教授だったルターは、1517年10月31日、大学の掲示版であったヴィッテンベルク城教会の扉に「95か条の論題」を貼り出し、免罪符に異見(質問状)を提示しました。

ルターの遺体が安置されているヴィッテンベルク城教会(c)n.spitznagel
ルターの遺体が安置されているヴィッテンベルク城教会(c)n.spitznagel

ルターの主張は、「人は信仰のみによって義(正しい行いや義務などの意)とされ、免罪符によっては救われない」というものでした。

この95か条の論題が公開されると、ルターの主張はカトリック教会の体制に不満を抱いていた国民に支持されるようになりました。

一方、ローマ・カトリック教会側は、教皇の権威を揺るがすと激怒し、ルターに論題の撤回を求め、のちに紹介するライプツィヒ討論へと展開していきます。こうして宗教改革が始まりました。

ちなみにルターの肖像画や宗教改革に関する絵、官能的な女性の裸体などを描いたザクセン選定候フリードリヒ3世宮廷画家ルーカス・クラナッハ父もヴィッテンベルクに工房を構えていました。

ローマ教皇から破門された街・ライプツィヒ

東部の街ライプツィヒは、ザクセン州に属する州都のドレスデンより人口が1万人ほど多い同州最大の街です。音楽家バッハやメンデルスゾーン、文豪ではゲーテやニーチェのゆかりの地として文化の都ですが、ルターはこの街で苦い経験をしました。

ローマ・カトリック教会を批判するルターに激怒したローマ教皇側は、ルターをライプツィヒのプライセンブルク城大広間に呼びだし、教皇側との公開討論会を開催しました。

1519年7月に行われたルターと教皇側神学者ヨハネス・エックとの論争は、「ライプツィヒ討論」として知られています。

手短に言えば、ルターは饒舌なエックの攻撃に対抗できず、このディベートで敗戦。しかしルターは気落ちするどころか、「ローマ教皇権は聖書に基づくものでない」と主張し、1520年に宗教改革文書を発表したのです。

1521年、ローマ皇帝カール5世の召集したヴォルムス帝国議会で、ローマ教皇の権威を揺るがす主張を撤回しなかったルターは異端児と見なされ、ローマ・カトリック教会から破門されました。

こうしてルター派はカトリックから独立し、新派プロテスタント(抗議する者)の源流を構築していきました。

ゲーテのファウストにも登場するアウアーバッハス・ケラー(c)nspitznagel
ゲーテのファウストにも登場するアウアーバッハス・ケラー(c)nspitznagel

その後、ルターはザクセン選帝侯フリードリヒ3世の保護を求め、ヴァルトブルク城に身を隠し生活したのです。

ヴァルトブルク城で新約聖書のドイツ語訳に着手したルターの様子は前回紹介したとおりです。

エックとの論争でこの街を訪れた際、ルターはライプツィヒの歴史的なワイン酒場アウアーバッハス・ケラーを訪問しました。ライプツィツヒ大学教授で医師、そしてこのワイン酒場の創設者ストローマー博士がルターを同店に招待し、密会したと伝えられています。

このレストランの「ルターの間」は、小さな部屋ですが、ルターの聖書の複写1630年が展示されており、歴史的空気が漂っています。

最後の説教地・ハレ

ルターが説教をしたマルクト教会(c)norikospitznagel
ルターが説教をしたマルクト教会(c)norikospitznagel

音楽ファンなら、ハレは18世紀ロンドンで活躍した作曲家ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデルの出生地としてご存知の方も多いでしょう。ハレは、日本ではあまり知られていないかもしれませんが、実はこの街にもルターの軌跡があります。

まずは、旧市街の中心にあるマルクト広場に向かいます。市内で一番大きなこの広場に面した4つの塔が目印のマルクト教会(聖マリア教会とも呼ばれています)は、ルターの宗教改革によりプロテスタントとなりました。 

幻想的なルターのデスマスクと手形(c)norikospitznagel
幻想的なルターのデスマスクと手形(c)norikospitznagel

ルターはこの教会で1545年から翌年まで、計3回の説教を行ったそうです。1546年1月生まれ故郷のアイスレーベンへの帰途、ルターはハレに立ち寄り、3回目(最後)の説教を行いました。そして、同年2月上旬にルターはアイスレーベンで死去したといいます。

ルターの遺体はヴィッテンベルクへ移送中、ハレのマルクト教会に一晩安置されました。この時、ルターのデスマスクと手形が法律家、神学者のユストス・ヨナスによりとられたのです。マルクト教会北の塔に展示されているルターのデスマスクと手形は、2006年より一般の見学が可能となりました。

ヨナスは、ルターが旧約、新約聖書のドイツ語訳を手がけた際、その翻訳を一緒に手がけた人物です。また、ルターの相談役として宗教改革に甚大な貢献をしたプロテスタント派の基礎を築いた一人だったそうです。

歴史的書籍の宝庫・聖マリア図書館内部(c)n.spitznagel
歴史的書籍の宝庫・聖マリア図書館内部(c)n.spitznagel

もうひとつ、あまり知られていないルターゆかりのスポットを紹介しましょう。プロテスタント教会の図書館として国内最古かつ最大の知の殿堂、聖マリア図書館です。

神学者ヨナスの後継者セバスチャン・ボティウス(マルクト教会の聖職者)は、1552年初め、マルクト教会のすぐそばに教会図書館(聖マリア図書館)を設立しました。この図書館には、600冊ほどの初期印刷本を含む、約3万冊の15世紀から18世紀の歴史的な書籍が保管されています。

生誕と終焉の街・アイスレーベン

世界遺産であるルターの生家は博物館になっている(c)n.spitznagel
世界遺産であるルターの生家は博物館になっている(c)n.spitznagel

ルターは鉱山労働者だった父ハンスと母マルガレータの次男として1483年11月10日にアイスレーベンで誕生しました。その後、マンスフェルト、マグデブルクで勉学、のちにエアフルト大学で神学を学びました。

アイスレーベンは、こじんまりとした街ですが、あちこちに彼の生き様が深く刻み込まれており、特に旧市街の生家はドイツ語圏で最古の博物館としても重要な意味を持っています。

さらに、彼が洗礼を受けた聖ペトリ・パウリ教会やルター説教壇のある聖アンドレアス教会、ヨーロッパで唯一の石絵の聖書がある聖アネン教会など、彼 の生涯の軌跡を物語る建造物がたくさん見られます。

ルター終焉の家はほぼ当時のまま保存されている(c)n.spitznagel
ルター終焉の家はほぼ当時のまま保存されている(c)n.spitznagel

ルターが幼少の頃に住んだアイスレーベンには、ルターに関する資料はあまりありません。しかし、ルターの生家や最期を迎えた家などを目にすれば、この街は16世紀にタイムスリップするかのような空気が漂っていることに気がつくでしょう。

ルターは、1546年1月23日ヴィッテンベルクに滞在、23、24日ビッターフェルド、24日から27日ハレ滞在を経て、最期の3週間(1月28日から臨終2月18日まで)をアイスレーベンで過ごしました。

ルターの遺産はすべて妻カタリーナに譲りました。当時は妻が遺産を受けることは許されなかったのですが、ルターの遺志で最愛のカタリーナに譲ったといいいます。

追記・マグデブルク

マンスフェルトの教会付属学校(ラテン語学校)で学んだルターは、13歳になると親元から離れ、マクデブルクで学校教育を受けました。その後、アイゼナハで学び、1501年にエアフルト大学に入学しました。

ルターは、マグデブルクの街角で歌を歌ったり、寄付を請ったりしながら生計を立てていたようです。街角で生活費を稼ぐのは、当時としては珍しくなかったといいます。

宗教改革後の1524年マグデブルクを訪問したルターは、アウグスティナー教会で説教をしました。この説教が多くの市民に支持されたことから、同年6月この街のほとんどの教会はルター派プロテスタントに転じたそうです。

マグデブルクの魅力詳細は次回紹介します。

取材協力・ドイツ観光局

在独ジャーナリスト

ビジネス、社会・医療・教育・書籍業界・文化や旅をテーマに欧州の情報を発信中。TV 番組制作や独市場調査のリサーチ・コーディネート、展覧会や都市計画視察の企画及び通訳を手がける。ドイツ文化事典共著(丸善出版)国際ジャーナリスト連盟会員

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