ドイツ「カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ生誕250周年」レポート その1 出身地グライフスヴァルト
今年は、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(1774-1840)の生誕250周年にあたります。1774年9月5日にグライフスヴァルトで生まれ、19世紀のロマン派時代に活躍した美しい自然風景と人間存在のはかなさを描いた画家フリードリヒゆかりの地を巡りました。2回にわたり、レポートします。(画像はすべて筆者撮影・一部特別許可を得て撮影)
生誕地グライフスヴァルトと生い立ち
ドイツの初期ロマン主義の代表的な画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(以下フリードリヒ・Caspar David Friedrich)の出身地グライフスヴァルトは、バルト海沿岸のリック川河口に位置する小さな港町。
日本ではあまり聞きなれない街かと思いますが、メクレンブルク=フォアポンメルン州に属し、ベルリン中央駅から電車で3時間前後と、思ったよりアクセスしやすい位置にあります。
グライフスヴァルトは、1250年に都市特権を経て、1278年にハンザ同盟に加盟し繁栄しました。17世紀、三十年戦争の結果スウェーデンに割譲され、19世紀初頭にはプロイセンの支配下に入るという波乱万丈な過去をのりこえてきました。現在は活気ある大学都市として、そして北欧の雰囲気を持つ水・自然・文化の豊かなリゾート地として人気です。
フリードリヒは、当時スウェーデンのポメラニア地方で2番目に大きな都市であったグライフスヴァルトの職人一家に10人兄弟の6番目として生まれました。父親のアドルフ・ゴットリーブは、獣脂石鹸を作る工房を営み、明確なことはわかっていないものの、晩年には商人として成功し、子供たちに良い教育を与えることを重要視していたようです。
フリードリヒの学校教育や芸術的才能の詳細についてはあまりわかっていませんが、1790年頃、グライフスヴァルト大学の建築家・製図教師から建築図面やスケッチの描き方についてレッスンを受けていたということです。
後にフリードリヒは、グライフスヴァルトからコペンハーゲンに行き、美術アカデミーで学んだ後、ドレスデンに移りました。彼はアカデミックな伝統と、ドレスデン近郊でのハイキングなど自然の中に、彼自身のインスピレーションの源を見出していきます。
ドレスデンで家庭を築き、大成功を収めた時期もありましたが、その後、彼の芸術は廃れていき、忘れ去られてしまいました。
幸いにも、1840年に亡くなってから半世紀以上経った1906年、ベルリン国立絵画館(ベルリン旧ナショナルギャラリー)で開催された「ドイツの世紀展」が彼の再発見のきっかけとなり、モダニズムの先駆者として称えられたのです。彼の人気が今日まで続いているのは、おそらく、人間と自然との関係が彼の芸術の中でとりわけ感動的だからといわれます。
市内のランゲ通り28番地にある彼の生家があったところは、現在、フリードリヒセンターとして公開されています。
同センターでは2024年10月13日まで「カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ展」を開催中。
19世紀から20世紀前半にかけて、グライフスヴァルトとそこに住む人々と密接に結びついた作品に焦点を当てて公開されています。
このセンターから西へ450メートルほど歩くと、フリードリヒ生誕250年を記念して今年12月まで、彼に捧げる多彩なプログラムを開催中のポンメルン州立博物館に到着します。
3回連続で開催される特別展では、当館が所蔵する膨大なコレクションと、国内外の美術館から寄贈された優れた作品が一堂に会し、フリードリヒの絵画や素描に浸ることができます。
代表作品のモチーフとなったエルデナ修道院跡へ
グライフスヴァルトのボッデン湾にそそぐリック川を挟んで南側に位置する市街地エルデナ地区。ここにあるエルデナ修道院跡へ向かいました。フリードリヒはこの修道院をモデルにした絵画「樫の森の修道院」と「エルデナ修道院跡」を残しています。
修道院の起源は、1199年まで遡ります。シトー会の修道士たちが現在のエルデナに定住し、かつての「ヒルダ修道院」をこの地方で最も重要な修道院のひとつに発展させました。1533年の宗教改革で修道院が解散した後、戦争による破壊と旧市街の建築計画のための赤レンガの撤去によって、廃墟と化しました。スウェーデンによる統治を受けていた時代は採石場がわりにされ、むき出しの煉瓦の廃墟が残されています。
1827年にプロイセン国王ウィリアム4世が出した禁止令だけが、破壊の拡大を食い止めることができました。その後、修道院跡の周囲に広大な公園を造成し、現在は主に文化的なイベントに利用されています。
漁村ヴィークとヴィーク橋
フリードリヒは、ヴィークとグライフスヴァルト周辺の風景に作品のモチーフを見出したと聞き、かつて漁村として栄えたヴィークを訪ねました。リック川河口の北側に位置し、北ドイツ・バルト海沿岸で最も古い漁村のひとつです。
市街地から5キロほど離れたヴィークへ行くには、まずヴィーク橋を渡ります。1887年に架けられた木製の跳ね橋は、技術文化財保護に指定されていて、この種の橋としてはヨーロッパで最古のものです。今も機能している観光ハイライトのひとつです。
毎正時になると手動操作で橋は吊り上げられ、帆船は通過できます。それ以外の時間、歩行者と特別許可を得た自動車は、いつでも橋の通行が可能で、川の両側を快適に行き来できます。
約800年の歴史を持つヴィークは、今日に至るまで海洋の魅力を保っています。フリードリヒは、ヴィークとグライフスヴァルト周辺の風景に作品のモチーフを見出したそうです。
この一角を散策すると、市街地とは全く異なる景観を満喫できます。
フリードリヒの作品
フリードリヒの生誕地グライフスヴァルトの他、ハンブルククンストハレ、ベルリン国立美術館旧ナショナルギャラリー、ドレスデン国立美術館の3か所でも特別展覧会を開催。この3つの美術館は、フリードリヒの作品を世界で最も多く所蔵しています。
フリードリヒは、自然に身を委ねることが好きで1人で数え切れないほどのハイキングに出かけました。彼の作風に見られる憂鬱、幸福への満たされない憧れは、幼少期の悲劇的な事故が、画家の性格に永続的な影響を与えた可能性が高いという見方もあるようです。
さらにフランス革命、農奴制の廃止、戦争、伝染病、ナポレオンとヨーロッパの新たな分裂、自由と自己決定への欲求など、激動と開拓の時代でした。
その事故があったのはフリードリヒが13歳の時のこと。水に落ちたフリードリヒを助けようとした1歳年下の弟クリストファーが溺死しました。
この悲劇については諸説ありますが、「2人の息子が小舟のような船に乗って堀で転覆した」と、両親は述べています。一命を取り留めたフリードリヒは、弟の死の責任が自分にあると思いこみ、深い悲しみが彼の作風に大きな影響を与えたと考えられています。
またこの出来事は、フリードリヒのうつ病の原因のひとつとして挙げられています。何となく悲しそうな雰囲気を持つ作品は、この悲劇を引きずっているのかもしれません。前記「樫の森の修道院」も「死」の色に染められているかのようです。
フリードリヒは写実的に画面を構成するのではなく、並行する歴史、あるいは別の世界の気分や感覚、可能性を描いたといわれます。彼の風景画は、建物のプロポーションさえ正しくありません。彼にとって重要なものに私たちの注意を集中させています。
例えば、グライフスヴァルトには存在しない山脈の前にエルデナ修道院の廃墟を描いています。
フリードリヒのメッセージとは?
「芸術は自然と人間との仲介役である。オリジナル・イメージは、群衆が把握するにはあまりに偉大である」と、フリードリヒは述べています。
彼のメッセージは、昨今注目を浴びている持続可能な旅に繋がります。というのも、彼は自然と密接な関係にあり、自然から力と静けさを引き出すために、日頃から自然に近づこうとしていたからです。
そして彼は、風景や自然をより深く体験するために、ゆったりとしたペースで旅をすること、特に1人でのハイキングを好みました。持続可能性、自然との距離の近さ、そしてスロートラベルがますます重要視される現代に共通します。
フリードリヒは私たちに自然への感謝と新たな価値観を教えてくれるのではないでしょうか。
次回はフリードリヒゆかりの地リューゲン島と近郊の街をご紹介します。