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徳川秀忠が関ヶ原合戦に間に合わず、父の家康から厳しく叱責されたのは事実か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川秀忠。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川秀忠が真田昌幸が籠る上田城(長野県上田市)攻撃に時間が掛かっていた。結果、秀忠は関ヶ原合戦の本戦に間に合わず、家康から厳しく叱責されたというが、妥当性があるのか考えてみよう。

 徳川秀忠は上田城を攻撃していたが、家康からの命令もあり、ただちに関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)に引き返した。しかし、途中の悪天候などの影響により、秀忠が関ヶ原に到着したのは合戦後のことだった。

 一方で、関ヶ原の家康本陣では、秀忠軍を待つのか、待たずに西軍と戦うのか協議していた。井伊直政は待たずして決戦を主張し、本多忠勝は待つことを主張したので、意見は真っ向から対立した。

 結局、家康は秀忠軍の到着を待たず、西軍との戦いに臨む決断をした。家康は西軍に勝利したものの、秀忠が合戦に間に合わないという大失態を演じたので、厳しく叱責したという。その点について確認しておこう。

 関ヶ原合戦後の9月20日、秀忠はようやく草津(滋賀県草津市)に到着し、家康が滞在する大津城(同大津市)に向かった。しかし、家康は遅参した秀忠に怒りを禁じえず、気分がすぐれないとの理由で面会を拒否したという。

 一説によると、秀忠の部隊はまったく整っておらず、三々五々に到着したので、その状況を見た家康は余計に機嫌を悪くしたと伝えている。この逸話は事実なのだろうか。

 秀忠が中山道を行軍した理由について、改めて考える必要があるのは、リスク管理の問題である。二点目としては、そもそも秀忠には上田城の真田氏を討伐するという目的があったという事実である。

 秀忠は上田城を落としたあと、東海道を進軍する家康とともに、池田輝政と福島正則の先鋒部隊と合流する予定だった。ところが、リスク管理上、最初から行軍ルートを東海道あるいは中山道の一つに限定するわけにはいかない事情があった。

 リスク管理とは、どういうことか。たとえば、自然災害で道が遮られたり、途中で思いがけず敵対勢力に遭ったりして、合流先に遅延する可能性がある。

 また、東海道は富士川、天竜川などの大河川が多く、天候の状況によっては順調に進軍できるとは限らなかった。つまり、天候などの状況いかんによっては、予定どおり行軍できるとは限らなかったのだ。

 家康が部隊を東海道と中山道の二つに分けたのは、単に秀忠が上田城の真田氏を叩くだけでなく、リスク回避をするためだったという視点も必要だろう。

 家康が秀忠の軍を待たず、関ヶ原で戦いに臨んだのは、勝利への確信があったからにほかならない。秀忠軍と合流せずとも、十分に勝算があったのである。

 秀忠の遅参は、大失態と言えばたしかにそうかもしれない。ただし、実際は連絡の遅延や悪天候という悪条件が重なったので、秀忠にとっては不幸が重なった。

 後世の編纂物が秀忠の失態をことさら強調するのは、何らかの意図があったのではないか。秀忠は失態を犯したというが、二代将軍に就任したのだから、家康は別に失態とは思っていなかった可能性がある。

主要参考文献

渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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