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【深読み「鎌倉殿の13人」】屋島の戦いで、那須与一が扇の的を射抜いたのは史実か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
那須与一は源義経の期待に応え、見事に扇の的を射抜いた。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第18回では、源義経が屋島の戦いで平家を敗走させた。その際、那須与一が扇の的を射抜いたと言われているが、それが史実なのか詳しく掘り下げてみよう。

■那須与一とは

 那須与一は資隆の子として誕生したといわれているが、生年は諸説あって定まらない。文字どおり、現在の栃木県の那須の出身と考えられるが、実名の資隆という名さえ、たしかとは言い難い。

 というのも、与一の名は『平家物語』、『源平盛衰記』に見えるだけで、一次史料どころか『吾妻鏡』でさえも確認できないのである。実在したのかどうかも怪しい。

 那須一族は与一と兄の為隆が源氏に与していたが、ほかの兄弟は平家に味方していた。治承・寿永の内乱において、那須一族は分裂して戦っていたのである。

■屋島の戦いと与一

 元暦2年(1185)2月19日、屋島で義経軍と平家は相まみえた。夕刻になると、平家方の船に乗った美女が竿の先の扇の的を指し、「射てみよ」と言わんばかりの態度を示した。平家による挑発行為である。

 義経はこれを外してはならないと考え、豪の者と知られる畠山重忠に扇の的を射るよう命じた。しかし、重忠はこれに怖気づいたのか辞退し、代わりの射手として那須十郎を義経に推薦した。

 ところが、十郎は怪我が治っていないことを理由として辞退した。その代わりとして与一を推薦し、与一はこれを承諾したのである。むろん、与一は不安だったに違いない。

 与一は扇の的を射るべく、馬に乗って海へと進んだ。与一は「南無八幡大菩薩」と唱え、仏の加護を願った。与一は万が一、扇の的を射抜けなければ、切腹して責任を取る覚悟だったという。

 覚悟を決めた与一は、力強く矢を放った。すると、矢は見事に扇の的を射抜き、扇はひらひらと夕日を背景にして舞い、海に落ちた。あまりの見事さに、源氏も平家もともに感嘆の声を挙げたと伝わっている。

 あまりのことに感動したのか、平家方の武者が扇のあった下の場所で、舞いを舞いはじめた。義経は与一に対して、その男を射るよう命じると、見事に射たのである。驚く者がいる一方で、「心無いことをした」という者もいたという。

 その後、義経は海に落とした自身の弓を拾い上げた。義経は「敵にこのような弱い弓を拾われ、これが源氏の大将の弓かと思われたら、末代までの恥だ」と語ったという。

■むすび

 与一が扇の的を射抜いた話は、『平家物語』などの二次史料にしかあらわれない。同時に問題となるのが、先述したとおり、与一の実在性である。実は、与一の没年も複数の説があり、定かではないのである。つまり、与一が実在したか疑わしいのだ。

 さらに、生きるか死ぬかという合戦の際、「扇の的を射てみよ」という、悠長なことが実際に行われたのか甚だ疑問である。那須与一が扇の的を射抜いたという逸話は、『平家物語』の物語性を高めるべく、源平合戦の一コマとして創作されたものに過ぎないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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