東へ撤退する白軍 バイカル湖の大シベリア冬季行軍
ロシア革命は数ある革命の中でもとりわけ流血の多かった革命として知られています。
そんな中でもとりわけ犠牲者を多く出したのは、バイカル湖の大シベリア冬季行軍です。
この記事ではバイカル湖の大シベリア冬季行軍の悲劇の軌跡について紹介していきます。
東へ撤退する白軍
1919年11月から12月にかけて、オムスク作戦とノボニコラエフスク作戦において白軍(ロシア革命に反対する勢力、なお革命賛成派は赤軍という)がロシア内戦で大敗を喫したことを受け、撤退が始まりました。
シベリア軍を率いるカッペル将軍は、負傷者を含む軍をシベリア横断鉄道沿いに後退させましたが、状況は非常に厳しいものだったのです。
なおその人数は兵士だけではなくその家族や赤軍による迫害を嫌がった農民や僧侶も加わっていたこともあり、総勢125万人と言われています。
西からはG・H・アイケ指揮下の第5赤軍が迫り、後方では反乱やパルチザン部隊による攻撃が相次ぎました。
さらに、厳しいシベリアの冬が撤退の困難さを増し、軍の秩序は崩壊しつつあったのです。
カッペル将軍の下、シベリア軍の士気は保たれましたが、食料や弾薬の中央供給が途絶えたため、本格的な戦闘を継続することは難しい状況に陥っていました。
シチェピヒン少将は、これを「武装した人々の群れに過ぎない」と評したのです。
それでも、カッペルのカリスマ性と指揮力によって第2軍は再編成され、シベリア横断鉄道に沿って撤退を続けましたが、物資不足や厳しい環境は軍の疲弊を加速させました。
撤退の過程で、チェコスロバキア軍団が鉄道の支配権を握り、ロシア軍への支援を拒否しました。
このため、白軍は鉄道を利用できず、古い高速道路沿いを進むことを余儀なくされたのです。
食料や物資が欠乏し、さらにチフスの流行が追い打ちをかけ、多くの兵士が病気や飢えで命を落としました。
コルチャーク提督も状況を制御できず、白軍は次第に崩壊していったのです。
12月15日、カッペルは軍の縮小を命じ、残った部隊だけで撤退を続行することを決断しました。
軍はシチェグロフ・タイガの深い雪と霜の中を進み、数日間食事や休息も取れずに耐え続けたのです。
この過酷な撤退で、重火器や物資を放棄せざるを得ず、負傷者や病人は赤軍の手に委ねられる結果となりました。
このタイガを通過する試練の中で、軍の規模は劇的に縮小し、多くの部隊が消滅しました。
戦闘能力を持つ少数の部隊だけが後衛戦を戦い続けましたが、赤軍の追撃は止まりません。
このシチェグロフ・タイガでの撤退は、多くの軍事史家によって「シベリア軍第3軍の墓地」と呼ばれ、白軍にとって壊滅的な結果となりました。
士気は崩壊し、軍の存在自体が危機に瀕したのです。
その後も赤軍の進撃は続き、白軍はさらに東へと後退を余儀なくされました。