【九州三国志】龍造寺氏の終焉と鍋島氏の台頭!化け猫騒動に見る権力争いの余韻
桃山時代における肥前の地は、鍋島直茂の手腕によって劇的な変遷を遂げました。
彼は豊臣秀吉との繋がりを巧みに築き、九州征伐では島津氏を屈服させる立役者となったのです。
この功績により、肥前国の安堵を受けたものの、政治の実権は次第に直茂が握る形となり、龍造寺家の名目上の当主である政家は影を潜めていきます。
秀吉が直茂を「知恵と勇気に優れるが覇気が足りない」と評したのも興味深いところです。
その後、朝鮮出兵を経て鍋島直茂の影響力はさらに増し、家臣団の支持を固める一方で、龍造寺政家との不和が囁かれるようになります。
この不和は、政家毒殺の噂や直茂が否定を迫られる起請文にまで発展しました。
関ヶ原の戦いでは、鍋島勢は巧妙な立ち回りを見せ、戦後も徳川家康の信頼を得ることに成功します。
しかし、その裏には龍造寺家中の勢力分配を巡る緊張がありました。
江戸時代に入ると、直茂の子・勝茂が佐賀藩主として幕府の公認を得て、龍造寺氏の遺領を継承します。
直茂自身は藩主の座に就かず、あくまで藩祖として隠居しますが、これには龍造寺氏への配慮があったともいわれています。
さらに、政家の弟・高房が直茂を恨み、自らの妻(直茂の養女)を殺害した上で自殺未遂を起こすという悲劇も発生しました。
この事件を契機に高房は衰弱し、その死後、龍造寺家の影響力は完全に失墜しました。
1611年には佐賀城が完成し、鍋島氏の支配体制は確固たるものとなります。
しかし、直茂はその隠居後の晩年、耳に腫瘍ができて激痛に苛まれた末に死去しました。
この異常な死因が、後に「鍋島家化け猫騒動」の一因となったと伝えられています。
権力争いの陰で翻弄された人々の怨嗟が、この怪談の背後に潜んでいるのかもしれません。