【九州三国志】義兄弟の絆と葛藤!鍋島直茂、隆信を支えた半生

鍋島直茂は、天文7年(1538年)に鍋島清房の次男として生まれました。
母は龍造寺家純の娘、桃源院です。幼くして小城郡の千葉胤連の養子となりますが、少弐氏との争乱により実家に戻り、運命の波に揉まれることになります。
その後、龍造寺隆信が家督を継ぐと、隆信の従弟であり義弟でもある立場から、直茂は隆信の右腕として活躍を始めました。
永禄12年(1569年)、大友宗麟の侵攻に際して籠城を進言し、さらには夜襲を指揮して大友親貞を撃破。
この勝利を記念し、鍋島家の家紋を杏葉に変更するという象徴的な出来事も生まれました。
その後も少弐氏や有馬氏など肥前の諸勢力を次々と屈服させ、龍造寺家の勢力を盤石にする役割を果たします。
しかし、次第に奢りを見せる隆信に対し、直茂は何度も諫言し、両者の関係に微妙な亀裂が走るようになったのです。
天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで隆信が戦死すると、直茂は深い悲しみの中で主家の再建を託されます。
島津有馬方が隆信の首の返還を申し出た際には毅然と拒絶し、家の威信を守ると同時に、講和交渉を有利に進める戦略を見せました。
この姿勢こそ、直茂の覚悟と誇りを象徴するものだったのです
隆信と直茂は「龍造寺の仁王門」と称されるほどの名コンビでありながら、その道は決して平坦ではありませんでした。
義兄弟の絆と葛藤に彩られた彼らの物語は、時代の波を越え、今なお鮮やかに語り継がれています。