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★2018NFL開幕記念★ 幾多の困難を乗り越えて掴んだNFLチアリーダーの夢 

三尾圭スポーツフォトジャーナリスト
幾多の困難を乗り越えてNFLチアリーダーとなった曽我小百合(三尾圭撮影)

TEXT&PHOTOS BY: KIYOSHI MIO/AAS

 NFLチアリーダーの人生は甘く華やかなストーリーに包まれた少女漫画のように煌びやかなものだと想像するかもしれない。

 テネシー・タイタンズでチアリーダーとして踊る曽我小百合がNFLチアリーダーになるまでの旅路は「努力」、「友情」、「勝利」がテーマの少年漫画のような波乱に満ち溢れたものだった。

 2017年9月10日――。曽我はタイタンズの開幕戦が行われたニッサン・スタジアムのフィールドに立ってアメリカ国歌を聞いていた。

 日本人選手がまだ立ったことのないNFL公式戦のフィールド。曽我の目の前には、アメリカで最も人気があるスポーツリーグ「NFL」のスター選手たちが、曽我と同じように感慨深い表情で国歌を聞いていた。

 国歌が終わるタイミングに合わせて、晴れ渡った青空が広がるスタジアム上空を3機の戦闘機が横切ったとき、曽我の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。

試合前の国歌斉唱で胸に手を当てて整列するタイタンズ・チアリーダーの曽我小百合(左から2人目)(三尾圭撮影)
試合前の国歌斉唱で胸に手を当てて整列するタイタンズ・チアリーダーの曽我小百合(左から2人目)(三尾圭撮影)

Xリーグ・チアリーダー時代に5年連続で参加したプロボウルで芽生えたNFLへの思い

 社会人アメリカンフットボールの最高峰「Xリーグ」に所属する富士通フロンティアーズの専属チアリーダー「フロンティアレッツ」の一員に曽我が加わったのは24歳のときだった。

 当時、Xリーグのチアリーダーにはハワイで行われるNFLのオールスターゲーム「プロボウル」で踊れるチャンスがあり、曽我はその常連で5年連続してプロボウルで踊った実績を持つ。

 NFLではファン投票や監督推薦で選ばれたスター選手だけでなく、各チームから一人ずつ選ばれたチアリーダーもプロボウルに招待される。日本からプロボウルに参加した曽我は、NFLの各チームから選抜された「NFLのオールスターチアリーダー軍団」と交流することで、世界のチアリーダーのトップレベルを肌で感じ、「いつかはあの中に私も入りたい」と憧れを抱くようになった。

富士通フロンティアレッツ時代にプロボウルでNFLのレフリーと一緒に写真に収まる曽我小百合(三尾圭撮影)
富士通フロンティアレッツ時代にプロボウルでNFLのレフリーと一緒に写真に収まる曽我小百合(三尾圭撮影)

管理栄養士とチアリーダーの二刀流として活動した10年間のXリーグ時代

 NFLへの憧れを持ちながらも、そこは遠い映画の中の世界のように感じられた。

 管理栄養士の国家資格を持つ曽我は、日中は管理栄養士として働き、夜はチアの練習、そして週末は試合での応援とパフォーマンスと忙しくも充実した日々が続き、それなりの満足感も得ていた。

 フロンティアーズも少しずつ強くなり、曽我にとって8年目となる2014年シーズンに創部以来初となるJXBを制して社会人の頂点に立ち、ライスボウルにも勝って日本一に輝いた。

 2万5000人以上のファンで埋まった東京ドームの舞台でパフォーマンスができ、「悲願の日本一になれたことで、私の中で1つ区切りが付きました」とフロンティアレッツの退部を決意。憧れだったNFLチアリーダーを具体的な目標として、2015年春にアメリカに渡った。

日本では管理栄養士とチアリーダーの二足のわらじを履いていた曽我小百合(本人提供)
日本では管理栄養士とチアリーダーの二足のわらじを履いていた曽我小百合(本人提供)

NFL初挑戦で待ち受けていた大きな試練

 NFLチアリーダーのオーディションを受ける前に、ミネソタでオーディション参加者向けの準備クラスに通い始めた曽我は、そのクラスを通して現役のNFLチアリーダーやディレクター、曽我と同じようにNFLチアリーダーを夢見る受験者との仲を深めると同時に、ダンスのテクニックにも磨きをかけた。

 不意のアクシデントは、全てが順調に進んでいるときに襲いかかる。

 準備クラスで、大きくジャンプした曽我は着地したと同時にフィールドに倒れ込んだ。

 「頭の中が真っ白になって何が起こったのか分かりませんでした」

 すぐに立ち上がろうとしたが、膝に力が入らずに生まれたばかりの子鹿のようによろめいた。

 異国で負ったケガ。病院で精密検査を受けたかったが、保険の都合でそれもできずに、ケガの詳しい状態も把握できなかった。

 ケガから数日後には運命を決めるミネソタ・バイキングスのオーディションが行われたが、そこには曽我の姿はなかった。

 「ギリギリまでオーディションに出ようと思っていたのですが、膝が不安定で真っ直ぐに立つこともできない状態で、踊ることはできませんでした」

 それでも曽我は夢を諦めることを拒んだ。

 「12年働いてきた管理栄養士のキャリアを捨てて、33歳で全てを日本に置いて渡米したので、夢を簡単に諦めきれませんでした。10年以上もNFLのチアリーダーのオーディションに合格することを夢見てきて、その夢に手が届く場所にいる」

 2週間ほど安静にしていると、膝の痛みは治まらなくても、膝を動かすことはできるようになった。NFL各チームのオーディション日程を見ながら、スケジュール的に間に合うチームのテストを受けるために、広いアメリカを西へ東へと移動して3チームを受験。その中の1チームではファイナリストに選ばれたが、ファイナル・オーディションが行われる前の晩に大きな決断を下した。

 「オーディションに合格することがゴールではなく、NFLチアリーダーとして活動することが大切なんだと初心に帰りました。膝が不安定なこんな状態でフィールドに立つのはチームに対しても無責任ですし、シーズン最後まで活動を全うできる確信も持てませんでした」

 日本に帰国後、すぐに病院で診察を受けると、膝の前十字靭帯(ACL)断裂が判明。すぐに手術を受けた。

 手術後のリハビリは辛く苦しいものだったが、NFLの舞台に立つ姿を頭の中で描きながら厳しいリハビリに耐えた。

 「リハビリも苦しかったのですが、それよりも踊れないことが何よりも辛かったです。とくに身体がある程度動くようにもなってきたリハビリの後半には、『踊りたい!』という意欲が強くなり、その葛藤との戦いがきつかったです」

 約1年間は踊れない生活が続いたが、上半身だけでもリズムを取りながら、ダンスの感覚を忘れないように努めた。

 「踊れなかったことで、自分がどれだけダンスとチアが好きなのかを再確認でき、踊れない分、英語やNFLの勉強をして次のオーディションの準備をしました」

ACL断裂手術からのリハビリ中は肉体的だけでなく、大好きなダンスを踊れない精神的辛さも味わった(本人提供)
ACL断裂手術からのリハビリ中は肉体的だけでなく、大好きなダンスを踊れない精神的辛さも味わった(本人提供)

ACL断裂を乗り越えた曽我を襲った第2の試練

 ACL断裂という試練を乗り越えた曽我を、また新たな苦難が襲いかかった。

 「ある日、会社で働いていたときにお腹が痛くなったんです。痛みが数日間治まらなかったので、病院に行ったところ、精密検査を受けるように言われました」

 診断の結果、「潰瘍性大腸炎」と伝えられ、緊急入院。薬の副作用が強く、身体の自由を奪われ、寝たきりの状態が3ヶ月も続いた。

 「ACLの次は、難病の潰瘍性大腸炎。1ヶ月の絶食期間で体重は10キロ以上も落ち、絶望的な思いもしましたが、『試練は乗り越えられる人にだけ与えられるもの』と激励の言葉をかけてくれた友人がいて、その言葉を励みにもう1度立ち上がる決意を固めました。NFLチアリーダーになるという夢があったからこそ、リハビリのモチベーションが高くなり、闘病生活も乗り越えられました」

 国から難病指定されている潰瘍性大腸炎は、大腸に潰瘍ができる病気で、激しい腹痛や下血、下痢を引き起こす。病気の原因はまだ解明されておらず、薬で腸の炎症を抑えることはできても、完治に導く内科的治療方法も発見されていない難病だ。

 安倍晋三内閣総理大臣も潰瘍性大腸炎の患者であり、2006年に初めて首相となった際には、病気が悪化して1年で総理大臣を辞任した。

 身体が資本となるアスリートにとって、潰瘍性大腸炎との付き合い方はとても難しく、身体のコンディションを整えるためには細心の注意を払わなくてはならない。

 潰瘍性大腸炎には絶対的な治療方法や薬はなく、患者さん1人1人が自分に合ったものを探していくしかない。

 「睡眠時間をどれくらい取り、どのようなものを食べると腸の状態が落ち着くか。自分の身体と対話しました」

 いくつもの治療方法を試した後、ようやく自分に合った治療方法と薬に出会えた。

ACL再建手術(右)、潰瘍性大腸炎(左)と続けて入院生活を強いられた曽我小百合(本人提供)
ACL再建手術(右)、潰瘍性大腸炎(左)と続けて入院生活を強いられた曽我小百合(本人提供)

2つの大きな試練を乗り越えて、アメリカ視察旅行へ

 初めての挑戦から2年が経ち、ACL断裂を乗り越え、潰瘍性大腸炎を抱えながら2017年の2月に再渡米。挑戦するチームはテネシー州ナッシュビルに本拠地を置くテネシー・タイタンズに決めた。

 実は膝のリハビリが終わり、潰瘍性大腸炎と闘病中の2016年秋に、曽我は自らが所属するチームを見極めるために1週間半のスケジュールでアメリカを訪れた。

 まずはサンフランシスコに立ち寄り、メジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した松井秀喜と会う機会に恵まれ、アメリカのスポーツ界に挑戦して成功した先駆者からパワーをもらった。

 その後は自ら目星を付けたチームの雰囲気を知るために、全米を周り8日間で4つのNFLゲームを観戦。ただ試合を観戦するだけでなく、そのチームのチアリーダーとコンタクトを取り、チームの内情や各チームによって違うチアリーダー事情などをメンバーに聞かせてもらった。

 また、合格後にはその土地で生活していくために、住居情報や交通のアクセスなども自分の目で見て、合格後に生活する姿を具体的にイメージしていった。

NFLチアリーダーとしての生活をイメージするためにアメリカへ視察に行った際、タイタンズのスタジアムを訪れた曽我小百合(本人提供)
NFLチアリーダーとしての生活をイメージするためにアメリカへ視察に行った際、タイタンズのスタジアムを訪れた曽我小百合(本人提供)

テネシーで巡り合った日産との不思議な縁

 そのときから本命と考えていたのがタイタンズ。

 曽我は富士通に入部する前に、1年だけ日産スカイライナーズというアメフトチームでチアリーダーをしていた。曽我が入った次の年にチームが解散してしまったために、富士通へ移籍してチアを続けたが、社会人チアの原点は日産にあった。

 意外にもテネシー州と日本は繋がりが強い。テネシー州には約200もの日本企業が進出しており、その半分以上が自動車関連。日産自動車とブリヂストンの米国本社がテネシー州にあり、日本企業が州の繁栄に大きく寄与している。

 地元に密着するために、日産自動車とブリヂストンは地元プロスポーツチームのメイン・スポンサーを務めており、タイタンズの本拠地スタジアムは日産が命名権を買い取り「ニッサン・スタジアム」と名付けられている。

 10年以上も前に初めて社会人として応援した日産。テネシーの地で日産と再び遭遇した縁を曽我は運命だと感じた。

NFLテネシー・タイタンズの本拠地スタジアムは日産自動車が命名権を買収して「ニッサン・スタジアム」と名付けた(三尾圭撮影)
NFLテネシー・タイタンズの本拠地スタジアムは日産自動車が命名権を買収して「ニッサン・スタジアム」と名付けた(三尾圭撮影)

潰瘍性大腸炎と付き合いながらのオーディション挑戦

 潰瘍性大腸炎は環境の変化やストレスに敏感なので、曽我はアメリカの環境に身体を慣らすためにオーディションの2ヶ月前に渡米。2月のテネシーはまだ寒いので、最初の1ヶ月間は温暖なフロリダ州マイアミで語学学校に通いながら、英語力とダンス力に磨きをかけた。

 3月半ばにナッシュビルに移ってくると、曽我と面識のあるディレクターやメンバーたちは家族のように彼女を歓迎してくれた。

尊敬するタイタンズ・チアリーダー・ディレクターのステイシー・キンダー(左)は、曽我を温かく迎え入れてくれた(本人提供)
尊敬するタイタンズ・チアリーダー・ディレクターのステイシー・キンダー(左)は、曽我を温かく迎え入れてくれた(本人提供)

 4月に行われたオーディションの1次と2次テストを無事に通過。最終テストは1ヶ月後だが、それまでの1ヶ月間は2次通過者による練習が週に3日あるだけでなく、英語による面談やその準備など時間がいくらあっても足りないくらいの忙しさだった。練習は踊りだけでなく、長距離走やダッシュなどコンディショニングにも力を入れ、普段から身体を鍛えていないと週3日の練習を乗り越えられない。毎日、3時間に渡るダンスの自主練習と、ジムで身体を鍛え、NFLチアリーダーに相応しい健康的な肉体美を作り上げた。

 ファイナル・オーディション前には忙しさからくる不規則な生活で潰瘍性大腸炎による腹痛が頻繁に起きたが、睡眠を十分に取り、管理栄養士の経験を活かした健康的な食生活で、身体を最高の状態まで戻してみせた。

1次オーディションに臨んだ曽我小百合(三尾圭撮影)
1次オーディションに臨んだ曽我小百合(三尾圭撮影)

10年越しの夢を叶えた瞬間

 2017年5月3日――。曽我はナッシュビルのダウンタウンにある有名レストランのステージに立っていた。普段は観光客が集まるそのレストランでは、タイタンズ・チアリーダーのファイナル・オーディションが開催されていた。

 エントリー番号27番を付けた曽我は、自らがデザインしたピンクのコスチュームに身を包み、パフォーマンスで観衆の心を魅了した。

 規定の演技とフリーの演技を終え、彼女の中には全力でやり切った充実感でいっぱいだった。

 「ナンバー27、サユリ!」

 審査結果を発表するディレクターが曽我の番号と名前を呼び上げ、10年以上も憧れていたNFLのチアリーダーのオーディションに合格した。

ファイナル・オーディションに合格して、喜びの涙を流す曽我小百合(三尾圭撮影)
ファイナル・オーディションに合格して、喜びの涙を流す曽我小百合(三尾圭撮影)

オーディション合格後に待つもう1つの壁

 日本からアメリカに来た曽我にとって、「オーディション合格=NFLチアリーダー」になれた訳ではない。

 彼女の前にはオーディションに続く第2の高い壁が待ち受けていた。就労ビザの取得である。

 NFLのチアリーダーのオーディション合格した日本人の中には、就労ビザを取得できずに、夢の舞台に立つことが許されず、泣く泣く日本に帰らされた者も少なくはない。

 プロのスポーツ選手やアーティストとは異なり、チアリーダーは評価が難しい職種だ。競技チア出身者であれば、国際大会での実績が国際的な評価となるが、曽我のように応援をメインに活動してきたチアリーダーたちには明確な評価基準がない。

 曽我は合格後にチアリーダーとしてビザを取得できるように、数年前から実績作りに励み、ビザ申請の準備をしていた。100万円近い弁護士費用は全額個人負担だ。

 約200ページの申請書類を作り上げ、移民局に提出。ビザ取得に時間を要すると、チームへの合流が遅れて、チームやメンバーにも迷惑をかけてしまうので、ビザ申請のプロセスは合格後、速やかに行わなくてはならない。

 無事に移民局から許可がおり、日本のアメリカ大使館での面接を終えると、曽我のパスポートにはNFLチアリーダーとして活躍できるビザ・スタンプが押された。

オーディションに合格後、ビザを取得できて、晴れてNFLチアリーダーとなれた曽我小百合(三尾圭撮影)
オーディションに合格後、ビザを取得できて、晴れてNFLチアリーダーとなれた曽我小百合(三尾圭撮影)

少年漫画のヒーローのような波乱万丈の人生を過ごしてきたチアリーダー

 「努力」。

ACL断裂を乗り越え、潰瘍性大腸炎と付き合いながら、夢を掴んだ曽我が積み重ねてきた努力は、スポ根漫画並。言葉も文化も違う異国の地で、アメリカ人と競い合って合格を掴み取り、ビザも取得できたのは彼女が夢を実現するためならば努力を惜しまない人だからに他ならない。挑戦を続ける過程で何度も涙を流したが、流した涙の分だけ強くなった。

 「友情」。

 誰も頼れる人がいないアメリカに単身乗り込んできた曽我が成功を収められたのは、彼女を家族のように支えるチームメートやディレクターとの間に信頼関係を築き上げたから。英語力が十分でなくても、誰からも愛されるポジティブかつ謙虚な性格で、すぐに仲良くなる。マイアミとナッシュビルで語学学校に通い、世界中からきた学生とも友情の絆を強めた。

 「勝利」。

 曽我がNFLチアリーダーになるという夢を叶えられたのは、彼女が勝利を掴んだから。オーディションに参加した他のメンバーを蹴落とすのではなく、彼女たちを助け、励ました上で、自らは最大限のパフォーマンスを発揮する。

 タイタンズは8年間もプレーオフから遠ざかっていたが、曽我が加入した2017年シーズンにプレーオフ出場を果たしただけでなく、プレーオフの試合で勝利を勝ち取った。「タイタン」とはギリシア神話に出てくる神々を意味するが、曽我は勝利の女神「ニーケー」の化身なのかもしれない。

9年ぶりのプレーオフ出場を決めた昨季最終戦の試合後に家族のように迎え入れてくれたディレクターとチームメートと共に(三尾圭撮影)
9年ぶりのプレーオフ出場を決めた昨季最終戦の試合後に家族のように迎え入れてくれたディレクターとチームメートと共に(三尾圭撮影)

NFLチアリーダー2年目の抱負

 2018年9月9日――。曽我はNFLチアリーダーとして2年目のシーズンを迎える。

 NFLチアリーダーは皆がチームと1年契約を結び、次の年も活動を続けるには、オーディションを受けて合格しなければならない。今春に行われたオーディションで無事に合格して、2年目の今季もタイタンズ・チアリーダーとして活動を続ける。

 「無我夢中で走り抜けた1年目は全てのことが初めてのことばかりで周りを見渡す余裕もなく、戸惑う機会も多く、先輩メンバーに付いていくので必死でした。2年目の今季は昨年よりもさらに積極的になり、アンテナを高くして視野を広げながら、新しく入った後輩メンバーを引っ張っていきたい。アメリカでの生活にも慣れてきたので、私なりの個性を活かしながら、楽しみながらチアリーダーとして活動していきたいです。日本に向けてもタイタンズとNFLの魅力と情報を発信して、日本の皆さんとNFLの架け橋的存在となれるように頑張っていきます」

 NFLのチアリーダーが試合でパフォーマンスするのは公式戦のホームゲーム8試合とプレーオフのホームゲーム数試合だけと非常に限られている。曽我は試合のときだけチアリーダーでいるのではなく、常にチアリーダーとして周りに笑顔と幸せを届けることを意識している。

 「努力」をしている全ての人を励まして、これまでに支えてくれた全ての人への感謝の気持ちを持ちながら、その恩返しの意味も含めて日本とアメリカが真の「友情」で結ばれるように橋渡し役となり、世の中の全ての人たちがそれぞれの人生で「勝利」を掴めるように応援していく。

 そんなチアリーダーとしての存在意義を口にする曽我は、少女漫画のヒロインのような輝きに満ちている。

少年漫画のヒーローのような芯の強さと少女漫画のヒロインのような可憐さを兼ね備える曽我小百合(三尾圭撮影)
少年漫画のヒーローのような芯の強さと少女漫画のヒロインのような可憐さを兼ね備える曽我小百合(三尾圭撮影)
スポーツフォトジャーナリスト

東京都港区六本木出身。写真家と記者の二刀流として、オリンピック、NFLスーパーボウル、NFLプロボウル、NBAファイナル、NBAオールスター、MLBワールドシリーズ、MLBオールスター、NHLスタンリーカップ・ファイナル、NHLオールスター、WBC決勝戦、UFC、ストライクフォース、WWEレッスルマニア、全米オープンゴルフ、全米競泳などを取材。全米中を飛び回り、MLBは全30球団本拠地制覇、NBAは29球団、NFLも24球団の本拠地を訪れた。Sportsshooter、全米野球写真家協会、全米バスケットボール記者協会、全米スポーツメディア協会会員、米国大手写真通信社契約フォトグラファー。

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