【光る君へ】朝廷で話題になった「尾張国郡司百姓等解文」には、何が書かれているのか
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、朝廷で民衆からの訴えをどう扱うかが議論されていた。その際、話題になったのが「尾張国郡司百姓等解文」である。すでに日本史の教科書に取り上げられるほど有名であるが、いったい何が書かれているのか、改めて確認しておこう。
尾張国郡司百姓等解文」は、永延2年(988)11月8日に尾張国内の郡司や農民らが国守の藤原元命(生没年不詳)の非法を朝廷に訴えたものである。大変貴重な史料であるが、原本は伝わっておらず、鎌倉時代後期の写本が早稲田大学、東京大学史料編纂所、真福寺に所蔵されている。
元命の在任期間は3年に及んだが、その間の非法は31か条にわたった。そのうちの一つには、公出挙がある。公出挙とは、国司が官稲を春に3~5割の利息で貸し付け、秋の収穫後に返させた制度である。
当初は勧農として行われていたが、実情は強制に近く、国家の大きな収入源になっていた。その結果、負担が農民に重くのしかかり、耕地を放棄して逃亡する原因となった。
また、交易雑物の課税率を高くしたり、税帳などの公文書を偽造したり、郎党らによる農民への乱暴狼藉行為があったりし、大きな問題となっていた。元命自身の私利私欲の追求という点が大きな反発を招いたのだ。しかし、こういうことは決して珍しいことではなかった。
訴えを受けた朝廷は、永祚元年(989)4月の除目において、元命を更迭した。代わりに、尾張国守に任命されたのは、藤原文信である。とはいえ、これで元命の官人としての生命が完全に断たれたわけではなかった。
長徳元年(998)4月、吉田祭の上卿(責任者)が急に参加できなくなり、代わりに元命が役を務めた。また、子の頼方、孫の頼成は受領に任じられており、その後も家は続いたのだ。
なお、後世に成った『尾州鳴海地蔵縁起』には、元命は更迭されたあと「術ツキテ東寺門ニテ乞食ケルガ、終ニハ飢死タリケリ」と書かれている。元命は万策が尽きて、東寺(京都市南区)の門前で乞食になったが、最期は餓死したというのだ。
むろん、この話は史実として認められないが、そのあまりに酷い暴政を窺い知ることができる。10・11世紀には、こうした国守の暴政に対して、農民らはその非法を訴えたり、あるいは耕作地を放棄して逃亡したりした。まさに、藤原一族の政治手腕が問われたのだ。