「河井事件での供述誘導」は十分想定されたこと、捜査に着手した検察幹部が責任を負うべき
2019年の参議院広島選挙区をめぐる大規模買収事件で、河井克行元法務大臣(以下、「克行氏」)と、その妻で同選挙に立候補して当選した河井案里氏(以下、「案里氏」)が、東京地検特捜部に逮捕・起訴され、克行氏に対しては実刑判決が確定し、案里氏も執行猶予付有罪判決が確定している。
この事件の捜査の過程で、克行氏から現金を受け取ったとして任意で取り調べた地元議員に対して、東京地検特捜部の検事が、不起訴にすることを示唆したうえで、現金が買収目的だったと認めるよう促すやりとりを記録した録音データがあることがわかり、最高検察庁は、「当時の取り調べに問題がなかったか調査する」と報じられている。
このような利益誘導ともいえる不起訴の示唆があったことは、この事件の捜査・公判の経過からすれば、十分に想定可能だった。
今年3月に公刊した拙著【“歪んだ法”に壊される日本 事件・事故の裏側にある「闇」】の《第2章「日本の政治」がダメな本当の理由 公選法、政治資金規正法の限界と選挙買収の実態》で、河井夫妻事件の背景と経過について述べ、公職選挙法の規定とその運用上の問題を指摘している。
政治家への金銭の提供
国政選挙で公職の候補者が、地方政治家や有力者に対して行う金銭の提供は、「選挙に向けての支持拡大のための政治活動」という性格もあり、公示日から離れた時期であればあるほど、「選挙運動」ではなく「立候補予定者が所属する政党の党勢拡大、地盤培養のための政治活動」を目的とする「政治活動のための寄附」との弁解が行われやすい。
その主張を通されると、「選挙運動」の報酬であることの立証は容易ではない。そのために、警察はこれまで、候補者から政治家への金銭の提供については買収罪による摘発を行わず、検察もあえて起訴してこなかった。
そのような捜査機関側の買収罪の摘発の姿勢もあって、国政選挙の度に、地方政治家に「選挙に向けて支持拡大のための活動」を依頼して金銭が提供されることは、恒常化し、半ば慣行化していった。
検察が、河井事件で、それまでは買収罪での摘発の対象にならなかった首長・県議・市議ら地元政治家への金銭供与の「買収罪」による摘発に踏み切ったことの背景には、「黒川弘務東京高検検事長の定年延長問題」での当時の安倍政権と検察との対立の構図があった。
広島地方検察庁特別刑事部が着手した公選法違反事件の捜査に、途中から東京地検特捜部も加わり、検察の総力を挙げて、前法務大臣の河井克行・案里夫妻の事件の捜査に取り組んでいた。
二つの壁
しかし、検察には、乗り越えなければならない「壁」が二つあった。
第一に、買収者(供与者、お金を渡した者)の河井夫妻側と、被買収者(受供与者、お金を受け取った者)の地元政治家の両者が、「案里氏が立候補する参議院選挙に関する金であること」を否定し続ければ、買収罪の立証は極めて困難だということだ。
判例上、「選挙運動」は「特定の公職選挙の特定の候補者の当選のため直接・又は間接に必要かつ有利な一切の行為」とされているので、特定の選挙のための活動を行うのであれば、「党勢拡大、地盤培養のための政治活動」という性格があっても、「選挙運動者」に当たることは否定できない。「政治資金規正法」上は適法であっても、「当選を得させる目的」で、「選挙運動者」に金銭を「供与」すれば、「公選法」上の「買収罪」が成立することに変わりはない。
しかし、「特定の候補者を当選させる目的」は主観的なものなので、買収者も被買収者も、あくまでその目的を否定し続け、しかも、それが「党勢拡大、地盤培養のための政治活動のための資金」という一応の理屈を伴うものである場合には、目的の立証は容易ではない。
地方の首長・議員には、その地域でまとまった数の支持者、支援者がいる。国政選挙でもかなりの票を取りまとめることができる。しかも、そういう政治家に、特定の候補のための活動を依頼してお金を渡しても、「選挙運動の報酬」ではなく、「政治活動のための費用の支払」であり、「政治資金を渡した」と説明することが可能だ。それは、その種の買収事案の摘発の大きな障害となっていた。
第二に、河井夫妻の買収罪が立証できた場合には、その金を受領した被買収者側の処罰が問題になる。買収者と被買収者は「必要的共犯」の関係にあり、買収の犯罪が成立すれば、被買収者の犯罪も当然に成立する。従来の公選法違反の摘発・処罰の実務では、両者はセットで立件され、処罰されてきた。
河井夫妻事件の被買収者の大半が公民権停止になり一定期間、選挙権・被選挙権を失い、現職政治家が失職することになれば、地方政界を大混乱に陥れることになる。そのような事態を招く公選法違反等による刑事立件や刑事処分を極力回避するというのが、従来の検察の姿勢だった。
目論見通り克行氏に実刑判決
河井夫妻事件の摘発については、上記の二つの問題があったが、それらを丸ごとクリアする方法として検察がとったのが、処罰の対象を河井夫妻に限定し、被買収者には「処罰されない」と期待させて「案里氏の選挙に関する金であることを認めさせる」という方法だった。
検察の取調べで、被買収者らは、明確に「不起訴の約束」まではされなくても、検察官の言葉によって、「処罰されることはないだろう」との期待を抱き、「案里氏の参院選のための金と思った」と書かれた検察官調書に署名した。
河井夫妻の起訴状には被買収者の氏名がすべて記載されたが、100人全員について、刑事処分どころか、刑事立件すらされず、河井夫妻事件の捜査は終結した。これを受け、市民団体が被買収者の公選法違反の告発状を提出したが、告発は受理すらされず、検察庁で「預かり」になったまま、河井夫妻の公判を迎えた。
買収罪で逮捕・起訴された克行氏は、2020年9月の初公判での罪状認否で、
と主張していた。しかしその後、検察官立証が終了して被告人質問が始まるときに、罪状認否を、首長・議員らへの現金供与も含めほとんどの起訴事実について「事実を争わない」に変更した。
その後の被告人質問で、克行氏は、党本部から提供される選挙資金を県連から市議・県議に提供するという本来のルートが使えなかったので、やむを得ず「現金」で自分が直接手渡すという方法を使ったと供述した。
克行氏が述べているように、国政選挙の前に現金で資金を提供するのは、克行氏だけの話ではなく、広島の自民党においてかねてから行われてきたやり方だ。
2021年6月18日、克行氏に対して、計100人に約2900万円を供与した公選法違反の買収罪で「懲役3年」の実刑判決が言い渡された。
こうして、2つの問題を乗り越える検察の目論見は、うまくいったかのように思えた。
しかし、そのような検察のやり方には、もともと無理があった。
被買収者の起訴へ
克行氏の被告人質問が行われていた頃には、市民団体が、河井夫妻から現金を受領した受供与者(被買収者)の公選法違反の告発状が、すでに受理されていた。河井夫妻の買収罪について有罪判決が出ているのに、被買収者の方は告発を受理しないまま、というわけにはいかなかった。
検察にとっては、告発を受理すれば、起訴不起訴を決定し刑事処分をしなければならない。不起訴にするとしても、「犯罪事実は認められるがあえて起訴しない」という「起訴猶予」しかないが、もともと検察内部の求刑処理基準に照らせば、「起訴猶予」の余地はあり得なかった。
告発人が不起訴処分を不服として検察審査会に審査を申立てれば、「起訴相当」の議決が出ることはほぼ確実であり、検察は、その議決を受けて起訴することになる。それによって、公民権停止で失職する現職議員の被買収者側から、「検察に騙された」と激しい反発が生じることは必至だった。
と言い訳をしても、被買収者たちが納得できないのは当然だった。
克行氏への一審有罪判決から、半月余り経った7月6日、検察は、被買収者100人について、被買収罪の成立を認定した上で99人を起訴猶予、1人を被疑者死亡で不起訴にしたことを公表した。
この不起訴処分に対して、告発人が検察審査会に審査申立てを行い、検察審査会は、広島県議・広島市議・後援会員ら35人(現職県議13名、現職市議13名)については、「起訴相当」、既に辞職した市町議や後援会員ら46人については「不起訴不当」の議決を行った。
議決を受け、検察は、「起訴相当」と「不起訴不当」とされた被買収者について事件を再起(不起訴にした事件を、もう一度刑事事件として取り上げること)して再捜査を行い、「起訴相当」とされた広島県議・広島市議ら35人のうち、重病で取調べができない1名を除いて、全員を起訴した(略式手続に応じた25人については略式起訴、買収罪の成立を争うなどして略式手続に応じなかった9人については公判請求)。
被買収者を騙して河井夫妻を起訴した検察
克行氏は、地方政治家への供与について、公判では一貫して、「党勢拡大」「地盤培養」のための政治資金だったとの主張を続けた。
しかし、検察官の取調べで、被買収者側が、「処罰されることはないだろうとの期待」を抱き、「案里氏の参院選のための金と思った」と認める供述をしたからこそ、河井夫妻を買収罪で逮捕・起訴することが可能になり、河井夫妻の有罪判決が確定したのである。それによって、被買収者側も、結局のところ処罰を免れられなくなった。そういう被買収者側の供述がなければ、そもそも、買収事件の立証は困難だった。
つまり、河井夫妻事件で、金額的に大部分を占める地方政治家への金銭の供与が買収罪で有罪になったのは、被買収者側が、検察に騙されて「選挙のカネ」と認めたという特殊な事情によるものだった。
現職国会議員が直接現金で渡したという点は別として、金の流れ自体は国政選挙においては一般的なものであり、それまでは、公選法違反として刑事事件の摘発の対象とされるものではなかった。
河井事件での選挙をめぐるカネの流れは、国政選挙における保守政治家のやり方としては一般的なものだったとの見方も可能なのである。
検察の常套手段が録音データで明るみに
以上のような河井夫妻の多額現金買収と、受け取った側の地方政治家ら被買収者の公選法違反事件の背景と経緯については、【前掲拙著】で詳しく解説しているとおりであり、検察官の地方政治家の取調べで、「不起訴にすることを示唆したうえで、現金が買収目的だったと認めるよう促すやりとり」が行われること自体は、もともと想定されていたことだった。
今回、この問題が大きく報じられたのは、やりとりを記録した録音データがあることがわかり、それについて、最高検察庁も、「当時の取り調べに問題がなかったか調査する」と答えざるを得なくなったからだ。
しかし、検察官の取調べにおいて、そのような「不起訴にすることの示唆」が行われることは、河井夫妻の「多額現金買収事件」を公選法違反事件として立件し、強制捜査に着手した時点で、当然想定されていたことであり、取調べを担当した検事達は、忠実にその使命を果たしただけだ。その取調べの在り方について責任を問われるとすれば、取調べ担当検事個人ではなく、当時検察のトップの検事総長としてその決断をした稲田伸夫氏、そして、東京地検特捜部長として捜査を指揮した森本宏氏の方であろう。
河井夫妻事件の刑事立件、強制捜査着手、逮捕・起訴という検察の決断の背景には、当時の安倍政権側との確執、検察幹部人事をめぐる問題があった。それだけに、それまで、「安倍一強体制」の下で、牙を抜かれた状態だった検察が、この事件で政治、社会に及ぼした影響は極めて大きく、相応に評価すべきものだと言える。
しかし、この事件の捜査には、それまでの検察の実務からすれば、公選法違反事件として、もともと「無理筋」の面があり、そこに敢えて突撃するとすれば、検察側での相応の「被弾」「被爆」を覚悟せざるを得なかった。それが、今回、取調べの録音記録の存在が報じられることで現実化した。この問題に対して、検察は、組織として十分な説明責任を果たさなければならない。それを、個人の責任に矮小化して逃げ切ることなど、到底許されることではない。
この問題に対して、今の検察幹部が、どのような対応を行うのか、これから静岡地裁で再審公判が始まる袴田事件とともに、今後の検察の在り方にも影響を及ぼす極めて重大な局面だと言えよう。