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いかにして田原俊彦はメディアから“干された”のか

てれびのスキマライター。テレビっ子
爆笑問題・太田光が作詞した田原俊彦のシングル「ヒマワリ」のジャケット

今年6月23日放送の『サワコの朝』(TBS)にゲスト出演した田原俊彦。

司会の阿川佐和子が、いわゆる「ビッグ発言」でメディアから“干され”仕事が激減した時の心境を単刀直入に尋ねると田原はこう答えた。

あの時に僕に力があれば、全然そんなの吹き飛ばせたと思うし、みんなが思うほど干されたっていう気持ちはない

さらに、仕事がなくなった際、転職を考えたかと聞かれても「ない」と即答し、続けてこう言い放った。

だって田原俊彦ですから!

「ビッグ発言」の真相

では、田原俊彦が“干された”原因とされる「ビッグ発言」とはどういったものだろうか。

当時、ワイドショーなどで繰り返し使われたのは以下のような発言だ。

田原:お忙しいなかをね、マスコミ嫌いの田原のためにこうしてあつまっていただきありがとうございます。

今日のこの場面ですか、会見もね、僕の意思に反することは充分にあるんですが、ここに至るまでの段階として、ほんとみなさんの熱意と言うかしつこさと言うか大きなお世話に僕も大変困惑しまして。

――(結婚式の)時期はいつごろになりそうですか?

田原:またぁ、こないでよー。疲れるんだから(会場笑)。嫌いなんだから。僕はみんなのことを。

何事も隠密にやりたかったんだけど、僕くらいにビッグになっちゃうと、そうはいきませんけどね。よく分かりました、はい。

「終始傲慢な態度で記者の質問に答えない」などと批判を浴び、彼の好感度は地に落ち、一気に表舞台から姿を消す要因となった、とされている。

しかしながら、この会見は大幅に、そして恣意的に編集されている。

そのことを検証したのが『爆報!THEフライデー』だ。

これは、爆笑問題がMCを務め、田原俊彦がスペシャルMCに起用された番組。

その初回放送(2011年10月21日)で「波瀾爆報ヒストリー田原俊彦」と題し、この会見のノーカット版が放送されたのだ。

会見が行われたのは1994年2月17日。長女が誕生したことを受けて行われたものだった。

以下が実際の会見の全文書き起こし(太字は編集後残った発言である)。

――それではまず田原さんご自身の方から父親になった喜びのコメントをお願いします。

田原:(笑顔)

えー、お忙しいなかね、マスコミ嫌いの田原のためにこうしてあつまっていただきありがとうございます。

これまでね、半年間僕は僕なりにね、自分のペースで沈黙を守ってやってきたわけですけど、無事……

(ここで、マイクが入ってなかったことを指摘される)

あ、聞こえなかった? ごめん……。いきますよ。

本日はホント、お忙しいなかをね、マスコミ嫌いの田原のためにこうしてあつまっていただきありがとうございます。

この半年間、本当極秘入籍から始まりましてね、結婚、そして無事に出産というね、過程を経ましてね、今日この場に挑むことになりました。

今日のこの場面ですか、会見もね、僕の意思に反することは充分にあるんですが、そこは百歩譲って僕のためではなく、みなさんももちろんこうして集まってくれましたし、ま、すべてを語るというわけにはいかないと思いますがね、産まれてきた、2月14日ですか、僕のエンジェルちゃんのために今日はね、頑張ってみたいなぁ、と思ってます。よろしくお願いします。

――「僕のエンジェルちゃん」なんですけど、何グラムで?

田原: えーとね、3320(グラム)ですから、結構大きかったみたいですね。

――名前はもう決まったんですか?

田原:名前は決まりましたけども……、

――どんなお名前?

田原:いきなりですか? そんな簡単に教えたくないんですよねえ(笑)。

(会場笑)

田原: あとにしましょう。

――出産には立ち会われたんですか?

田原: いや、僕はちょっと打ち合わせがありましてね、ちょうどかな? ギリギリかな? ちょうど病院についてエレベーター降りた途端に「オギャー」と聞こえましたんでね。そっちに向かって歩いていったらね、産まれて30秒くらいかな、ちょうどギリギリセーフで、まだ産湯に浸かる前だったからギリギリ間に合ったってところですかね。

――対面は出来たってことですか?

田原: そうですね。

――その時の気持ちっていうのは?

田原:なんか、なんて言うんだろうな、感激と言うか、感動と言うか、自分の分身かっていうね……、なんていうのかなぁ、なんて表現したらいいのか不思議な感覚がありましたね。

――どっちに似てらっしゃいますか?

田原:なんか女の子だから、パパに似てるっていう話は僕も聞いたんですけど、女だったら僕にあんまり似て欲しくないなぁって思ってました。でもまぁ、どうなんだろうな。(僕に)似てるところもあればワイフに似てるところもあるんじゃないかなぁと。

――これからおしめを替えたり、ミルクをあげたりいろいろ奥様大変になると思いますが、そのへんご自分でもなさろうと思っていますか?

田原:それは秘密です。

――やってあげたいでしょう?

田原:まぁ、僕は炊事とか洗濯とか色々ありますし、

――そちらのほうの分担ですか?

田原:ええ。

――まだ挙式披露宴はなさっていないんですけど今後のご予定は?

田原:そうですね、だからここに至るまでの段階として、ほんとみなさんの熱意と言うかひつこさと言うか大きなお世話に僕も大変困惑しまして、これは僕だけだったらね、いつでもかかってらっしゃいということなんですが、やはり僕には妻がいて、ファミリーがいて、やっぱりそのへんにまで飛び火するということがね、とっても僕としては苦痛だったし、それぞれ生きていく上で、やぱり自分の人生をどこまで表現するかっていうのはね、それはやっぱり個人の自由だと思うし、こういう職種だから僕はその点ではね、100%OKなんですけど、まあそれはね、婚約会見やりたい人、結婚式を放映したい人、離婚会見なんてことをやる人もいたりなんかしますが、僕はどちらかというとそういうタイプの男ではなくて、エンターテイメントの部分ではね、本当にみなさんと良い関係をね、これまで保ってきたし、これからもそうしていきたいと思ってますけど、やっぱりプライベートの部分では、見せたくないなぁっていうのが本音であってね、でもまぁ、そこを知りたいのがね、世の中の求めるものですから、そのへんで僕としてはね、僕の生き方として皆さんにとっても冷たくして、失礼なこともあったななんて多少は反省してますけど、そういうこともありましたんでね、まぁ、(結婚)式については、これは身内だけで、どこかの外国に行ってね、ブリっとやりたいな、と。披露宴の方はご辞退させて頂きます。

――てことは親子三人で挙式ということになりますか?

田原:そうですね……。もしくは、おふくろにでも預けて2人でもいいですしね。

――時期はいつごろになりそうですか?

田原:またぁ、こないでよぉ、疲れるんだから。嫌いなんだから、僕はみんなのことを

(会場笑)

――5月くらいですか?

田原:そうですね。とりあえず子供も落ち着いて体調も回復して5月か6月くらいには行きたいと思ってますけど。

――式場とか予約はされてるんですか?

田原:いや、全然してないです。

――今まで教えてもらえなかったんで、奥様の出会いと結婚に至るまでのいきさつみたいなものを簡単に説明していただけますか?

田原:どうしようかな……(微笑)。がんばるか。

――綾子さんを奥様に選んだのは?

田原:そうですね、こればっかりはね、タイミング……。やはり縁もあると思うし、最終的にはね、その人がね、家庭に入って、僕の中の女性観にね、100%までとは言わないけど、一緒に生活していく力があるかどうかってことでね、初めて結婚っていう形になると思うんですよ。だから、そういう意味で「うん、いけるな」と思ったし、そんな出会だったんじゃないかなと思いますね。で、僕は33歳で絶対に結婚するっていう自分なりの計画がありましたんでね、まぁ、それよりちょっと勇み足がありましたけど、まぁ、、、何事も隠密にやりたかったんだけど、僕くらいビッグになっちゃうとそうはいきませんけどもね、よく分かりました、はい

(会場笑)

田原は基本的に質問に真摯に答え、答えたくない極めてプライベートな部分は冗談でかわし、会見は終始笑いに包まれていた。

いわゆる「ビッグ発言」も彼流のジョークであることは明らか。

いかに、編集によって、その印象が変わるのかが一目瞭然だ。

蒸し返された「ビッグ発言」

この直後から「ビッグ発言」が切り取られ一夜にして今風に言えば、“炎上”し、自身が「パリパリになっちゃったよ」と振り返るように田原俊彦は猛烈なバッシングを浴び、メディアから干されていった。

というのが、現在の通説だ。

だが、それもまた正確な事実ではないことを明らかにしたのが岡野誠:著『田原俊彦論』(青弓社)だ。

これは、田原俊彦のファンでもある岡野が田原のデビューから現在に至るまでをつぶさに研究し、田原俊彦を通して80年代以降のアイドル史までを紐解いた大著だ。

そこにはもちろん、田原の「ビッグ発言」から“干された”経緯も克明に記されている。

岡野によれば、意外なことに、会見直後、この「ビッグ発言」は問題視されていなかったという。

時がたつと人の記憶は歪み、記録は省かれ、大雑把に数行でまとめられる。田原俊彦の「ビッグ発言」は当初から問題視されていたのか。真実をつかむには、当時の報道をしつこいほど詳細に振り返る必要がある。

出典:岡野誠:著『田原俊彦論』(青弓社)

岡野はその言葉どおり、この会見の前後の報道を丹念に掘り起こしている(以下、『田原俊彦論』の検証を元に構成)。

1993年7月16日、『FOCUS』が、田原俊彦と向井田彩子の結婚を前提にした交際をスクープ(田原、マスコミの取材には応じないが、出演したフジテレビの音楽番組『MJーMUSIC JOURNAL』では、概ね認める発言)

同年10月9日、「日刊スポーツ」「報知新聞」が「来春結婚」などと報じる。実はこれは11日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日)での田原自身の「来年結婚します」という発言を受けたもの。(やはり田原はマスコミへの取材は応じない)

さらに入籍時も田原は会見を行わなかった。

田原は一貫してテレビ番組では話すが芸能マスコミに対しては沈黙を貫いている。それまでの写真週刊誌やワイドショーからの執拗な取材攻勢に嫌気がさしていたのだろう。だが、田原の頑なな態度は皮肉にもよりマスコミの取材を加熱させることに繋がってしまった。

そして翌年2月17日、長女誕生を受け、遂に田原はマスコミの前に姿をあらわし会見を行った。

自分はともかく、長女がマスコミに追いかけられることを避けたかったからだ。

この会見、実は当日のワイドショー『タイムアングル』(フジテレビ)ではほぼノーカットで伝えられたという。

しかも翌日のスポーツ紙や翌週発売された女性週刊誌の見出しには「ビッグ」の文字は一切ない。内容も概ね好意的なものだった。

一方、会見の9日後、田原からマスコミ各社にFAXが送られた。

その内容は、「3月1日より田原俊彦は、ジャニーズ事務所から独立」するというものだった。

そんな中で、当初は問題視されていなかった「ビッグ発言」が日を追うごとにクローズアップされ、バッシングを受けるようになっていった。

3月1日発売の『週刊女性』の見出しは<田原俊彦(32)「オレはビッグだ」発言「思い上がるな!」――「いつからあんな人に!」本誌へも非難殺到>というもの。この頃からワイドショーでも「ビッグ発言」が切り取られバッシングが激化していった。

こうして見ると、ジャニーズ事務所独立を契機に田原俊彦バッシングになったようにも見て取れる。

ジャニーズ事務所の意向や圧力にマスコミが従ったのだろうか。

だが、そう結論づけるのは早計だ。

意外にも独立直後は、田原はジャニーズの後輩たちと何度か共演している(このことも岡野は『田原俊彦論』で日付や回数まで明らかにしている。共演しなくなったのは、独立後しばらく経ってから)とおり、直接的な圧力が(少なくても独立直後に)あったとは考えにくい。

実際、田原は社長であるジャニー喜多川らに筋を通し“円満”に退所しているという。

また片岡飛鳥が『笑っていいとも!』レギュラー(95年~)に起用したとおり、気骨のあるテレビマンは田原を使った。完全に“干された”わけではなかった。

もちろん推測でしかないが、田原がジャニーズと共演しなくなったのは、事務所の圧力というよりも、番組側の忖度という面が強かったのではないか。

そして、「ビッグ発言」をマスコミが蒸し返したのは、それまで田原を守っていたジャニーズという後ろ盾がなくなったからではないだろうか。

“間抜け”な人生

そんな逆風吹き荒れる中、不遇の時代にもブレずに立ち向かい続け、田原のボケにツッコんでくれる爆笑問題というパートナーを得て“復活”するまでの田原俊彦の姿を克明に描いた『田原俊彦論』は感動的だ。

けれど、岡野は「こんなものじゃないよ、田原俊彦は」と様々な提言もしている。それはまさに田原俊彦へのラブレターだ。

あの田原の運命を変えることになった会見で、芸能マスコミから必死で守ろうとした長女は、皮肉にも2011年に芸能界デビューを果たした。

そのことを爆笑問題に聞かれた田原は「『芸能界入ったら縁切るぞ!』って言ってたら先に切られちゃいました」と自嘲するように笑う。彼女は自らグラビアアイドルとしてデビューしたのだ(現在は女優として活動)。

田原:それ(娘が載った雑誌)は見た、見た! コンビニ行ったら「あれ!?」みたいな(笑)。何、水着になってんだ! みたいな。

太田:この間抜けさね。なんなんだろう、この人生?  最高のオチだよな。あの会見で、散々隠してきた、干されてまで守った娘がデビューしちゃった(笑)。こんなオチはないよね。こんな間抜けな人生ってないよね!

出典:『爆報!THEフライデー』2011年10月21日

そう爆笑問題の太田光に言われ、田原は「楽しいな!」と満面のトシちゃんスマイルを返した。

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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