本能寺の変に乗じて挙兵したが、非業の死を遂げた安藤守就
どさくさに紛れて、面倒なことを引き起こす人は、昔からいるものである。かつて織田信長に仕えていた安藤守就は、本能寺の変に乗じて挙兵したが、非業の死を遂げたので、その経緯を探ることにしよう。
安藤守就はもともと美濃国守護の土岐頼芸に仕えていたが、頼芸が斎藤道三に追放されると、道三の配下に加わった。守就は稲葉良通、氏家直元とともに、「西美濃三人衆」と称された。
道三の没後、守就は子の義龍に仕え、義龍の死後は子の龍興に仕えた。永禄7年(1564)2月、守就は娘婿の竹中重治と龍興に挙兵し、稲葉山城を攻撃することもあった。
永禄10年(1567)、織田信長が美濃国に攻め込み、龍興を放逐すると、守就は信長の配下に加わった。以後、守就は信長の命に応じて、各地を転戦したのである。
天正8年(1580)8月、信長は突如として、守就をはじめ林秀貞、丹羽氏勝を家中から追放した。信長は3人が野心を抱いていると考え、問答無用で処分を行ったのである。
守就が実際に野心を抱き、信長に挙兵しようとした事実は確認できない。その際、守就の弟の郷氏も追放された。安藤家の家臣も守就が放逐された煽りを受け、牢人生活を余儀なくされたのである。
守就が追放されたので、居城だった北方城(岐阜県本巣郡北方町)は、信長配下の稲葉良通(一鉄)に与えられた。その後、守就がどのような生活を送っていたのかは不明である。
天正10年(1582)6月2日、明智光秀が本能寺を襲撃し、信長を自害に追い込んだ。これを知った守就は、チャンスとばかりに子の尚就とともに兵を挙げたのである。
守就・尚就父子はかつて居城だった北方城に攻め込み、一時は占拠する勢いをみせたが、良通の攻撃を受けて敗北した。同年6月8日、守就は一族ともども自害して果てたのである。
なお、郷氏の子の可氏は生き残り、のちに山内一豊の庇護を受け、山内姓に改姓した。可氏とその子孫は、山内氏が土佐に移封になって以後も、仕え続けたのである。