藤原道長もビックリ!興福寺が大勢の僧侶を引き連れ、源頼親を訴えたわけとは?
前回の大河ドラマ「光る君へ」の終盤では、興福寺が大勢の僧侶を引き連れ、入京する場面があった。そして、今回は興福寺の定澄が藤原道長と面会し、源頼親を訴える場面があったので、その辺りの事情を考えてみよう。
寛弘3年(1006)、興福寺(奈良市)は新たに着任した大和守の源頼親と所領をめぐって争った。当時、興福寺の別当を務めていたのは、定澄である。定澄は壬生氏の出身で、興福寺の別当などを歴任した高僧として知られた人物である。
興福寺は南都七大寺の一つで、法相宗の寺院である。藤原鎌足・不比等父子のゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺でもあった。それゆえ興福寺は、藤原氏によって手厚く庇護され、現在は世界遺産の一つとして登録されているほどの寺院である。
源頼親は満仲の子として誕生し、大和源氏の祖となった人物である。兄には頼光(多田源氏)、弟には頼信(河内源氏)がいた。頼親は頼光とともに道長に仕えており、道長に摂津守に推挙されたこともあったが、頼親が摂津国内に多くの所領を保持していたので実現しなかったこともある。
興福寺は頼親との所領争いを解決すべく、朝廷と道長に対し、速やかに頼親を大和守から解任するよう求めた。しかし、朝廷や道長にも言い分があったので、すぐに頼親を解任することができず、両者の交渉は難航を極めた。
こうなると、興福寺は実力行使に出るしかなく、約2000という僧侶を引き連れて入京し、朝廷と道長に圧力をかけた。そこで、朝廷は宣旨をもって、彼らを京都から大和国に追い返したのである。頼親を無罪であると考えていたようだ。
その後も頼親は、大和守として活動した様子がうかがえるので、興福寺による頼親の大和守解任の要求は失敗に終わったと考えてよいだろう。
頼親は摂津国に基盤を持っていたので、たびたび摂津守を希望したが、それは退けられた。その代わり、三度も大和守を務めた。ただし、三度目の永承4年(1049)には、次男の頼房が興福寺との合戦で多数の死者を出したので、頼親は土佐国に流された。