ネタバレが致命傷になる映画をどう批評する? 「葛藤のある」書き手と「ない」書き手が共存する業界
映画について文章を書く際に決めていることがある。ネタバレをしないこと、あるいはする時は予告することだ――と言うと「当たり前だろ!」と先輩方からお叱りを受けそうだが、これが意外に業界の「常識」になっていない。ネタバレの定義が人によって違うし、どこまでバラしていいかの基準も人それぞれだからだ。
あらすじはネタバレの一部だから避ける
あらすじを書くのは作品紹介として当然のことだとされているようだが、私はなるべく書かない。ネタバレの恐れがあるのと、後ろめたいから。小学生の時読書感想文を書けと命じられ、あらすじを延々紹介して誤魔化したことがある。あの時も後ろめたかったが、プロの書き手として字数換算で原稿料をもらえるようになると、あらすじというオリジナリティのないもので原稿を埋めるのは、恥ずかしくもったいないと思うようになった。
その代わりに、その作品を見て考えさせられたことや社会的背景、舞台設定や発想の面白さを掘り下げる。
あらすじ抜きでは物語の内容はわからないものの、物語の始まり方や世界観を紹介することでも興味を煽ることは可能だと思っている。
例えば、これまでアップした『The Cured』ではゾンビの“健康保菌者”がいるという発想の面白さ、『The Sower』では女だけの世界に異物の男が入って来るという設定の面白さを紹介してはいるが、誰が主人公でどうなってこうなってああなる、というストーリー紹介はカットした。これ、書き手によってはあらすじも入れるし、「最後にこうなる」というところまで書いちゃう人もいる。筋がわからないと映画を見る気にならない、という人もいるから、そういう読み手を想定しているのだろう。
未来の試合の観戦記としての映画批評
私がネタバレに対してストイックなのは、サッカーに置き換えてみるからである。
試合の結果がわかっていることほど興ざめなことはない。映画評というのは、私だけがタイムマシーンに乗って未来の試合を観戦し、その勝敗もプレー内容も全部知った上で書く、試合紹介のようなものではないのか。
「熱戦でした」はOK、「ロナウドとメッシが活躍しました」もOK、「バルセロナが最初は押し込みました」あたりから怪しくなり、「前半はレアル・マドリーのリードで終わりました」は半分ネタバレ、「バルセロナが劇的な逆転勝利」は完全ネタバレである。
では、「最後の最後にひと波乱あります」はどうか? 私の基準ではネタバレでアウト。でも、これはセーフだ、と考える人もいるだろう。
私が映画評でやろうとしているのは、「バルセロナ、レアル・マドリーともに絶好調です」、「勝った方が俄然優勝に近づきます」、「ポゼッションが勝敗の分かれ目です」、「熱戦でした」、「ロナウドとメッシは持ち味を出し合いました」を書いて、試合に興味を抱かせより多くの人に観戦してもらうこと。だから試合内容には極力触れず、試合前の状況や両チームの足取り、勝敗の持つ意味と勝負を分けるポイントを書く。
『猿の惑星』に「衝撃のラスト!」はOK?
映画に話を戻す。
厄介なのは、舞台や設定自体が大ネタである作品も存在すること。主人公たちのいる世界の謎が徐々に明らかになることが物語の面白さである、というケースだ。
例えば『猿の惑星』である。今では誰もが知っているラストシーンで明らかになる事実……。
この作品の評で「猿の惑星は○○だった」と書くのはあり得ない。私の基準では、「衝撃のラスト」と書くのも、“何か起こるんだな”と予断を持たせてしまうのでアウト。衝撃というのは「ある」と心の準備をした時点で度数が下がってしまうものだからだ。『シックス・センス』も『ヴィレッジ』も同じ。その意味で、『シックス・センス』でブルース・ウィリスの警告を冒頭に入れたのは、製作側としてもぎりぎりの判断だったに違いない。
最近の作品で私が葛藤したのは『ルーム』だった。
見てほしいのに、あらすじの最初の1行からネタバレの可能性がある。衝撃を味わおうとすれば予告編ですら見てはいけない作品だった。でもこれ、あっさりと謎を明かしてある映画評も多かった。
サン・セバスティアン映画祭で見た『Marrowbone』もそういう作品の1つである。
スペインで先に上映され、なかなかヒットしている。スペイン語の題名は『El Secreto de Marrowbone』 であり、和訳すると「マローボーン家の秘密」。物語の核心、そのままである。スト―リーは……。いや書けない。日本で公開されたらぜひ見てほしい。