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武田氏が滅亡する遠因となった高天神城の戦いでの敗戦

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、高天神城の戦いがあまり描かれなかったが、非常に重要な戦いなので取り上げることにしよう。

 天正3年(1575)の長篠の戦いで、武田氏は織田・徳川連合軍に敗北したが、容易に屈しなかった。5年後の天正8年(1580)9月19日、武田氏の遠江の拠点である高天神城(静岡県掛川市)が徳川氏の軍勢に攻囲された。

 高天神城は「高天神を制するものは遠州を制する」と称されるほどの難攻不落の名城だった。山の美しい形から、鶴舞城とも呼ばれている。現在は、国の指定史跡であるが、このとき高天神城は徳川勢の猛攻により、落城の危機に瀕していた。

 高天神城の城将・岡部元信は、家康に同城の引き渡しなどを条件に城兵の助命嘆願をしたが、家康は拒否した。家康に拒否するよう命じたのは、信長である。信長は武田氏に余力がないと判断し、一両年中に駿河、甲斐へ攻め込もうとしていた。

 天正9年(1581)3月17日、勝頼は北条軍と棡原(山梨県上野原市)で戦っており、苦戦を強いられていた。勝頼は同時に徳川、北条を相手にして戦っていたので、もはや高天神城に援軍を送る余裕すらなかったのである。

 同年3月22日、家康は高天神城に総攻撃を仕掛けると、城兵は一斉に城外へと打って出た。しかし、武田軍は大敗北し、約7百3十余名もの兵を失った。長い籠城戦で武田方は飢餓に苦しみ、もはや援軍が期待できなかったので、無謀な戦いを選択したのである。

 戦後、家康は勝利に酔いしれることなく、徹底した武田勢の落人の探索を命じた。この敗戦により、勝頼は大きな精神的ダメージを受けただけでなく、ますます弱体化が進んだと言える。

 その後も武田と織田、徳川、北条の抗争は、延々と続いた。窮地に陥った勝頼は、臨済宗の僧・南化玄興の仲介によって、信長との和睦を模索したが、それは失敗に終わった。万事休すである。

 信長の武田氏征伐には、一切の変更はなかった。同年12月18日、織田信長は黄金50枚で兵粮米8千俵を買い入れた。信長は来るべき武田氏との決戦に備えて、牧野城(愛知県豊川市)に兵粮米を送ったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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