釜茹でにされた石川五右衛門は、実在する大泥棒だった
今や嘆かわしいことに、我が国でもアポ電強盗といった事件が頻発している。豊臣秀吉の時代、釜茹でにされた石川五右衛門なる大泥棒がおり、実在したと考えられているので紹介することにしよう。
石川五右衛門といえば、江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎でも演じられ、人々に広く知られるようになった大泥棒である。何となく架空の人物のように思われているが、実在したことが明らかにされている。ただし、大泥棒だけに、五右衛門の生年や出自は不明な点が多い。
『鹿苑日録』文禄3年(1594)8月23日条の記事には、京都の三条橋の下で、10人の罪人が釜茹でにされたと書かれている。釜茹でというのは、大きな釜に湯を沸かし、そこに人を入れて煮殺すことである。いわゆる「釜茹での刑」である。
また、『言経卿記』同年8月24日条の記事にも、京都の三条橋南の河原において、盗人、スリ10人と子供1人が釜茹でにされたと書かれている。さらに、首謀者の仲間19人は、同じ場所で磔にされたという。その際、多くの見物人が集まったのである。
名前こそ書かれていないが、このとき釜茹での刑にされたのが、石川五右衛門だった。その事実を裏付けるかのように、スペインの商人アビラ・ヒロンの『日本王国記』にも詳しく書かれている。その概要を示すことにしよう。
京都に盗賊が集まり、巾着切り(スリ)をするため、多くの人を殺害した。それゆえ、京都、伏見、大坂、堺などでは、朝になると死体がゴロゴロとしていた。
盗賊のうち何人かを捕縛し拷問したところ、15人の頭目がいることが明らかになった。頭目1人につき、30~40人の手下がいた。
15人の頭目は、生きたまま油で煮られ、彼らの妻子、父母、きょうだいに加え、五等親までが連座して磔刑に処された。盗賊らも、一族もろとも同じ刑に処されたのである。
『日本王国記』の注記によると、油で煮られたのは、石川五右衛門と9~10人の家族だったという。当時、京都などの主要都市では、盗賊が活発に活動しており、秀吉は頭を抱えていた。ゆえに、釜茹でという厳罰に処して、見せしめにしたのである。