戦国時代にスマホがあれば便利だった。あまりに悪かった当時の通信事情
昨年のNHKの番組で「天下人のスマホ」が放映されていた。むろん、この話は創作であるが、戦国時代はあまりに通信事情が悪かったので、スマホがあれば大いに助かったのは事実である。当時の通信事情はどうなっていたのか、考えることにしよう。
現代の社会は、大いに通信技術が発達した。簡単なことなら電子メール、込み入った話なら電話を使うなどし、即座に用件を済ませることができる。
ところが、昨今報道されているとおり、その影響で手紙を書く人が減ってしまい、関係者は大いに頭を悩ませているところである。手紙は届くのに時間が掛かるうえに、切手を貼ったり、ポストに投函したりするなどの手間も掛かるからだ。
戦国時代において、通信手段は書状を送るか、使者を遣わして口頭で伝えるかの手段しかなかった。とはいえ、書状に述べたいことをすべて書くことは困難であり、また軍事機密を書いた書状の場合は、途中で奪われる可能性もある。
そこで、書状には簡単に伝えたい趣旨を記し、「詳しいことは使者が口頭で伝えます」というケースもあった。もし、使者が口頭で伝えた内容が現在に伝わっていれば、いくつかの歴史上の謎が解けたかもしれない。
ところで、もっとも大きな問題は書状を送っても、場所によって届くのに時間が掛かることである。近くならば、使者が馬を飛ばせば、その日のうちに着くことも可能であるが、遠隔地の場合はそうはいかなかった。場所によっては、1~2週間掛かることも珍しくなかったのである。
これが戦争に関する書状の場合、書状を送った時点では「わが軍は勝っています」と書いても、書状が届いた時点で負けていたということもあった。当然であるが、書状は刻一刻と変化する状況に対応できなかったのである。
それゆえ、当時の戦国大名は、同じ日に同じ相手に何度も書状を送ることがあった。つまり、状況の変化に対応したり、あとで思いついたことを追加で伝えたりすべく、何度も書状を送ったのである。もし、当時にスマホやメールがあれば、かなり便利だったことは、当然のことといえよう。
慶長5年(1600)、徳川家康は上杉景勝を討つべく、会津に向かったが、その途中で石田三成ら西軍の諸将が兵を挙げたことを知った。当時、京都や大坂から北関東に書状を送った場合、2週間前後の時間を要したという。
スマホやメールがあれば、家康はすぐに西軍の動きに対応できたが、実際はそうではなかった。せっかく、家康は三成らの挙兵を知ったものの、その詳細は続報を待つしかなかったのである。
また、天正10年(1582)の本能寺の変で、織田信長は明智光秀に急襲されて横死した。当時、羽柴(豊臣)秀吉と対峙していた毛利氏は、本能寺の変の正確な情報をなかなか入手できなかった。
今残る書状を見ると、毛利氏に伝わっているのは、誤った情報が多い。もし、スマホやメールがあれば、もっと状況が変わっていたのかもしれない。