NHK朝ドラ「らんまん」 モデルの植物学者・牧野富太郎が初めての上京時に見た六甲山は禿山
NHK朝ドラ「らんまん」
令和5年(2023年)4月3日(月)よりNHKで連続テレビ小説「らんまん」がスタートします。
神木隆之介さんが演じる主人公のモデルは、植物学者で植物学の父とも称せられる牧野富太郎ですが、富太郎が最初の上京時に神戸港から見た六甲山は江戸時代の乱伐で禿山でした。
のちに、研究に没頭するあまり経済的に困窮し、採取した植物標本を売るところまで追い詰められています。
それを救ったのが神戸の素封家・池長孟(はじめ)の膨大な援助です。
大正7年(1918年)には池長の援助で神戸市兵庫区会下山に牧野富太郎のための「池長植物研究所(牧野富太郎植物研究所)」ができています。
この場所は、現在は会下山小公園となっており、牧野富太郎研究所跡という碑があります。
そして、この研究所に保存されていた標本や図書等は、昭和16年(1941年)に東京に在住していた牧野富太郎のもとへ返され、現在、標本は首都大学東京牧野標本館で、研究所の図書等は高知県立牧野植物園で保管されています。
また、六甲山の山頂付近には、牧野富太郎の指導を受け、昭和8年(1933年)に開園した六甲高山植物園があります。
海抜が865メートルに位置するため、年平均気温は約9度と、北海道南部並であることから、世界の高山植物や寒冷地の植物など約1,500種を栽培しており、日本最古の植物園として多くの観光客を集めています。
このように、牧野富太郎と関係が深い神戸ですが、牧野富太郎が上京時に神戸港から見た禿山となっていた六甲山は、現在は緑の山に様変わりしています。
六甲山の荒廃と植林
豊臣秀吉は、大阪城築城に必要な石材を六甲山地から集めた見返りとして、付近の農民に「六甲の樹木伐採勝手なるべし」との許可をしています。
この慣例は江戸時代も続き、長年に渡って乱伐が行われてきた結果、明治時代に入る頃にはほとんど木が無くなっていました。
このため、多くの断層があり、勾配が急である六甲山地から流れる川筋は、土石流や洪水被害が多発して荒廃していました。
明治時代になり、阪神地区の経済活動が急速に膨張し、その重要性が増してくると、新たな土地の開発が必要になってきました。
しかし、大阪周辺は昔からの開発と利用が進んでおり、新しい膨大な需要を満たす広い土地があまり残っていませんでした。
そこで、兵庫県等が目をつけたのは、当時荒廃していてあまり利用されていなかった六甲山地から流出する河川沿いの地方であり、特に、大阪と神戸の中間を流れる大河である武庫川流域の開発には力が入っていました。
それと同時に、開発した土地を土砂災害や水害から守るため、兵庫県や神戸市が主体となって六甲山の植林が精力的に進められました。
昭和初期までに植林され、緑を取り戻した面積は30平方キロメートルと、六甲山地のおよそ2割にも相当します。
また、河川の改修も積極的に行い、洪水に強い都市建設を目指しています。その過程で甲子園球場が誕生しています。
結果的に大洪水でできた甲子園球場
大阪と神戸の間を流れる武庫川は、明治29年(1896年)と明治30年(1897年)の2年連続で台風により大洪水が発生しています(図1)。
明治29年(1896年)は、7月から雨が多かったのに加えて、勢力の強い台風が8月30日タ方に紀伊半島に上陸し、22時頃に大阪付近を通過したことから、阪神間は30日夜から31日にかけて風と雨が強まり、多くの河川で堤防が決壊しています。
武庫川は31日4時頃堤防が決壊し、瓦木村(現西宮市)は全村水没して砂原化しています。
また、明治30年(1897年)は、勢力は強くなかったものの、激しい雨を伴った台風が9月29日から30日にかけて九州から瀬戸内海を通って大阪に上陸したため、阪神間では多くの堤防が決壊し、武庫川も支流の枝川(えだがわ)の堤防が決壊しています。
しかし、このときは、根本的に河川改修をする費用がなかったため、堤防の不備を緊急に補修しただけでした。
大正時代になり、阪神地区の開発が進み、武庫川下流の土地にも価値が出てきました。
そこで、武庫川の支流である枝川と申川(さるがわ)を廃川とし、その土地を売って、その代金で武庫川の河川改修を行い、余った金で阪神国道(国道2号線)を整備する計画が立てられました(図2)。
阪神国道を整備するといっても、武庫川付近では、旧阪神国道の北側を通る新しい道路(新国道)です。
廃川敷地は81万平方メートルあり、兵庫県は、道路および水路を除く74万平方メートルを売却面積とし、武庫川の改修工事費の見積もり310万円と、阪神国道の改修費の1割の100万円を加えた410万円で、阪神電気鉄道株式会社(阪神電鉄)に売却しています。
阪神電気鉄道は、住宅地経営とレクリエーションセンター設置などを考えていました。
阪神電鉄が獲得した廃川敷地のうち、400平方メートルを使って、ニューヨークのヤンキースタジアムに匹敵する東洋一の大野球場、つまり、甲子園球場と甲子園駅を作っています(図3)。
どの年も甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)……の十干と、子(ね)、丑(うし)、寅(とら)…の十二支が順繰りにつけられていますが、大正13年(1924年)は、十干の最初の甲(きのえ)と十二支の最初の子(ね)が組み合わされた60年に一度のめでたい「甲子」の年であったことから、甲子園球場という命名です。
大洪水の結果としてできたともいえる甲子園球場ですが、河川敷の上にできた球場ですので、雨が降っても水はけの良い球場として有名です。
また、阪神の甲子園駅から甲子園球場に向かうと右手に松並木がありますが、これは旧申川の堤防の松の名残です。
さらに、甲子園球場というと、暑さのなかにひとときの涼しさを運んでくる甲子園浜からの浜風が有名ですが、これは、夏の高気圧の勢力範囲に入ったときの日中に発生する海風で、甲子園球場から見ると、ライトスタンドからレフトスタンドに向かって吹いている風ということになります。
色々なことが重なっているのが甲子園球場です。
昭和13年の阪神大水害と再びの六甲山の伐採
昭和13年(1938年)は、7月3日から梅雨の典型的な気圧配置となって大雨となり、4日夜にはいったん小止みとなったものの、5日午前には1時間に80ミリ近くの激しい雨となり、六甲山の植物園で616ミリなど、六甲山地を中心に総雨量が600ミリを超えています(図4)。
この豪雨により、六甲山地は5日昼前より山崩れが多数発生し、各河川の増水や土石流が市街地を直撃しています。死者・行方不明者695人、被災家屋15万戸という阪神大水害が発生しています。
神戸市水害誌によると、神戸市の全面積(2460万坪)の2割6分4厘、神戸市の平地面積(960万坪)の5割9分3厘、神戸市の人口(96万人)の7割2分2厘、神戸市の全家屋(21万戸)の7割2分1厘が被害を受けると言う大災害でした。
住吉川などの下流部は10メートル以上の岩が多数流れ出し、悲惨な状態となっていますが、その後、それらの石を使って災害の恐ろしさを伝える記念碑が多数作られています。
記念碑には、「有備無患」、「常ニ備ヘヨ」、「禍福無門」等の文字が刻まれています。
再び六甲山が禿山へ
阪神大水害の教訓から、六甲山地の砂防事業は、国の直轄事業となり、昭和13年(1938年)9月に六甲砂防事務所が開設され、六甲山地の災害対策は、兵庫県から六甲砂防事務所に委託されています。
また、芦屋川、住吉川など六甲山地から南へ流れる25の河川改修も国営事業となり、これを掌握する内務省神戸土木出張所では、阪神大水害復興河川改修計画を作っています。
このように、対策は取られて行きましたが、阪神大水害の翌日、7月6日は、日中戦争が始まって1年目に当たり、戦争の泥沼に入りつつあった時です。
その後、戦時色が強まるにつれ、効果的な工事が出来なくなり、逆に、松根油や薪炭増産の為に木を切ったり、食料増産の為に堤防の側面を掘り返していましたので、六甲山は禿山になりかかり、堤防は脆弱になっていました。
この為、戦争が終った昭和20年(1945年)10月10~11日に九州から中国地方を通って日本海に抜けた阿久根台風による大雨では、六甲山地周辺で大きな被害が発生しています。
兵庫県内の死者・行方不明者231人、全半壊・流出家屋1000棟、浸水家屋5万1000棟などでした。
六甲山地及びその周辺の防災工事は、戦後しばらくは、急激なインフレとセメント等の資材不足で効果的には行われませんでした。
本格的な防災の為の工事のスタートは、昭和25年(1950年)9月3日に紀伊水道を通って神戸市付近に上陸したジェーン台風により大阪湾で大きな高潮が発生し、全国の死者・行方不明者は539人、全半壊・流出家屋12万1000棟、浸水家屋40万2000棟などの害が発生した時からです。
この時、兵庫県内の被害は、死者・行方不明者41人、全半壊・流出家屋1万4000棟、浸水家屋6万1000棟などでした。
現在、六甲山周辺の阪神地区は、豊かな緑におおわれ、目覚しい発展を続けています。
しかし、その発展の基礎には、明治時代から始まった、100年を見据えた治水計画が実行され、その過程で、阪神大水害などの災害の教訓が逐次取り入れられてきたことについては、あまり知られていません。
個人的ですが、昔、神戸海洋気象台(現在の神戸地方気象台)で勤務していたこともあり、NHK朝ドラ「らんまん」で、六甲山の植林の話や、神戸市にあった牧野富太郎植物研究所の話、六甲高山植物園の話について、どう描くのか描かないのか、大きな興味があります。
図1、図2、図3の出典:饒村曜(平成11年(1999年))、イラストでわかる天気のしくみ、新星出版社。
図4の出典:饒村曜(平成6年(1994年))、100年を見通した治水計画、雑誌「気象」、日本気象協会。