WBCバンタム&WBAスーパーバンタム、2階級制覇チャンプの今
アメリカ西部、メキシコとの国境にある街、カリフォルニア州サンディエゴ。WBCバンタム級、WBAスーパーバンタム級と2階級を制したラウル・ペレスが当地に住んでおり、現在はトレーナーとして活動中だ。
ペレスは1988年10月29日にWBCバンタム級王座に就き、7度防衛。8人目の挑戦者だったグレグ・リチャードソンに判定負けしてベルトを手放した。そのリチャードソンは初防衛戦でビクトル・ラバナレスに判定勝ちし、次戦の辰吉丈一郎とのファイトで10ラウンド終了時に棄権し、王座から転落した。
ペレスは、リチャードソンに敗れたおよそ7カ月後にWBAスーパーバンタム王者となったが、辰吉やラバナレスと戦っていてもおかしくはなかった。
1967年2月14日にメキシコ、ティファナで生を享けたペレスは、8人きょうだいという大家族で育った。
「俺は5番目の子供だった。親父の顔は知らずに育っている。いないもんだと思っていたが、チャンピオンになってから会いに来たよ。
お袋が、男児6人、女児2人の8人を養ってくれた。レストランで働いていたが、本当に苦労していた。稼いで、母を楽にしてやりたかった」
ペレスがボクシングジムに通い始めたのは、5歳の時だったという。
「ボクシングに興味を持ったのは血だな。16歳でプロになった。戦うことで、カネを稼げる、人生を構築出来るなら、これが一番だと感じたんだ。
でも、自分に才能があるなんて思ったことは無い。今日は昨日より上達しよう、明日は今日より少し強くなろうって、コツコツと努力したことが実を結んだ。試合にも一つ一つ勝って、世界チャンピオンになれた。WBCタイトルを手にした日の喜びは、今も忘れられない。人生で最高の幸せを噛み締めたね」
7度防衛して盤石王者となったペレスが、グレグ・リチャードソンに敗れた理由について質問した。
「試合の11日前に、ティファナで交通事故に巻き込まれたんだ。2月14日だったのを覚えている。24歳の自分の誕生日だったからね。右の頬を22針も縫ったんだ。正直、試合が出来る状態じゃなかったけれど、キャンセルする訳にもいかなかった」
しかし、ペレスはおよそ7カ月後の再起戦で、WBAスーパーバンタム級王者、ルイス・メンドーサに判定勝ちして2階級制覇を達成する。
「そうそう。これからだなって思っていた。バンタム級以上に防衛してみせるって。でも、相性が最高に良く、信頼していたトレーナー、ラモノ・ケアルテが引っ越してしまってね。組めなくなった。他のトレーナーでは俺の良さを引き出せなかった。それで、以前に勝ったことのある相手に、あっさり負けてしまったんだ」
同タイトルの初防衛戦で、ウィルフレド・バスケスに3ラウンドでKOされた。
「1試合挟んで、ジェナロ・"チカニート"・ヘルナンデスの持つWBAスーパーフェザー級タイトルに挑んだ。彼とは2戦している。最初は試合開始から30秒足らずで互いの頭が当たり、俺が試合続行不可能となってしまった。左目の上から、かなり出血してさ……テクニカルドローになった。まぁ、仕方なかったよな。
2カ月後のリターンマッチでは、胸の痞えを下ろそうとパーフェクトな調整でリングに上がった」
彼の言葉通り、1993年6月28日のペレスは、初回から決して下がらずに手を出し続けた。メキシカンであるペレスに対し、ヘルナンデスはメキシコ系アメリカン。メキシコ人気質は、基本的にリング中央での打ち合いを好む。この夜のペレスは、ブルファイターとなった。
「チカニートは強かったよ。それにデカかった。我々は身長と年齢が同じだったし、俺も130パウンドの躰を作ったつもりでいたが、何もかもが違った。出来ることはやったけどね。正直、スーパーフェザーは無理だった」
第8ラウンド、ペレスはチカニートの左ボディアッパーを喰らってキャンバスに沈んだ。
そんなペレスは、1995年10月9日に後楽園ホールのリングに上がっている。ルイシト・エスピノサに2度のダウンを奪われ、初回KO負けした。
「やっぱり130パウンドは難しかった。今、つくづくそう思うよ。でも、日本のボクシングファンはとても温かくて、有難かったね」
2000年8月のファイトを最後に、リングを降りた。33歳だった。
「それから、トレーナーになった。ボクサーに大事なことは、自分と向き合い、徹底的に練習を積むこと。成功への道はそれ以外に無い。
今は市民権を持ち、サンディエゴに住んでいる。ボクシングを通じて、このコミュニティーのために働きたい。子供たちの成長に少しでも貢献したいと考えているよ」
熱の籠った2階級制覇王者の指導は、見ていて清々しいものだった。ペレスは、良い年の重ね方をしている。