論文捏造:STAP細胞論文から考える科学と私たちが抱える根本的問題:ヘンドリック・シェーン事件から
■理化学研究所とSTAP細胞論文と小保方晴子氏
理化学研究所はデータの「捏造(ねつぞう)」と結論を出しましたが、小保方晴子氏は悪意のないミスだと反論しています。はたして、STAP細胞が存在するのかどうかは、これから理研が確かめていきます。
■論文捏造
これまでも、社会を揺るがす捏造事件は、たびたびありました。韓国でも、科学者の名声と人気をほしいままにした研究者の論文捏造事件がありました。日本でも今回の問題以前から、東大、阪大、理研でも、捏造問題が発生してきました。私たちの関心を多く集めた事件としては、「神の手」と呼ばれた人による旧石器捏造事件がありました。
そして、世界的に見れば、近年で最大の論文捏造は、物理学の超伝導の分野における21世紀の天才科学者、スーパースター研究者「ヤン・ヘンドリック・シェーン」による大量の論文捏造事件です。
ウィキペディアでは「現在では科学における不正行為を行ったことで最も知られている人物」として紹介されています。
■『論文捏造』(中公新書クラレ):ヘンドリック・シェーンの超伝導論文捏造事件を追って
『論文捏造』(中公新書クラレ228:松村秀 著)は、ヘンドリック・シェーンの論文捏造事件を追って、世界100名の関係者に取材した労作です。テレビ番組としては、BSドキュメンタリー「史上空前の論文捏造」として、2004年10月9日放送され、本書はテレビで紹介できなかった部分も含めて、事件の真相に迫っています。
今こそ、読むべき本です。今回のSTAP細胞論文問題との共通点、科学が抱える問題点について、大変興味深く書かれています。テーマは固いですが、まるでエキサイティングな推理小説を読むように、ドラマの脚本を読むように、一気に読めます。
■ヤン・ヘンドリック・シェーン論文捏造事件とSTAP細胞論文問題
シェーンは、ドイツの大学を出た若い新進気鋭の物理学者、超伝導の研究者でした。さわやかなイケメンで、好青年です。大学でも、ベル研究所でも、いつも夜遅くまで研究していました。彼は、謙虚で誠実で正直で親切でした。
超伝導は夢の技術。エネルギー問題を大きく解決します。彼は、超伝導を今までよりもずっと簡単に実現できる画期的な方法を編み出します。世界の研究者がふるえるほどの大成果です(STAP細胞も同様でしたね)。
彼は、世界トップクラスの研究施設である「科学の殿堂」アメリカのベル研究所に所属していました。30歳で初めて「ネイチャー」に論文が掲載され、わずか3年で「ネイチャー」と「サイエンス」に16本もの論文が掲載されます。世界中の学会や講演会を飛び回り絶賛されました。ノーベル賞確実と言われました。
小保方晴子氏も、若く、とても好印象を与える人物でしょう(私自身もそう思いました。「STAP細胞の小保方晴子さんから学ぶ「やる気の心理学」:負けず嫌いとおばあちゃんのかっぽう着」)。理化学研究所という日本で唯一の自然科学の総合研究所に所属し、世界を驚かす大発見をして、論文がネイチャーに掲載されました。
シェーンは、大成果を上げ、カリスマ的人気者、科学界のヒーローとなり、ベル研究所は彼を破格の扱いで優遇し、大々的に売り出します。これも、理研による最初のSTAP細胞紹介記者会見や、その後の熱狂振りを思い出させます。
若手研究者シェーンが世界に求められたのは、研究成果のすばらしさだけではなく、共同研究者にその分野の第一人者バトログ博士がついていることもありました。小保方氏の共同研究者の先生も、その分野では高名な大先生です。
しかし、シェーンは実際には論文に記載した実験を行っておらず、データもなかったのです。
■シェーンの論文不正、ウソをなぜ見抜けなかったか。:科学が抱える問題
大先生が横につき、「サイエンス」や「ネイチャー」に論文が掲載されます。彼の論文は、超伝導の分野では「バイブル」と呼ばれていました。誰がこれを疑うことができるでしょう。次々と発表される彼のすばらしい研究に基づき、世界中の研究者たちが何年もかけ、莫大な費用を使い、研究を進めます。しかし、シェーンの実験の再現には失敗します(再現、追試に失敗するのは、STAP細胞も同様ですね)。
しかし、シェーンの威信は揺るぎません。おかしいと思いますか?
再現、追試に失敗したときに考えられる可能性は、2つあります。1つは「今回の私実験が失敗した」。2つ目は、「最初の実験が間違っている」。あなたならどう思いますか、向こうは世界的権威が着いて世界的科学誌に掲載されています。常識的に考えれば、自分の方が失敗したと思いませんか?
私は物理学も生物学も全くの素人ですが、私の分野の実験社会心理学でも、よく見られることです。有名な実験でも、追試(再現)に失敗することはよくあります。それは、最初の実験がインチキなのではなく、社会心理学の実験方法は、論文には書けない職人技的な手法が必要であり、訓練と細かい調整がなければ、うまくいかないのです。
シェーン論文捏造事件もそうだと、世界の研究者は思いました。
世界の研究者の多くは、彼がドイツの母校ある特別な機械「マジックマシーン」を使い、すばらしい技術「神の手」を使って、成功確率の少ない難しい実験を成功させたと思ったのです。
また、総合科学雑誌である「ネイチャー」は、専門科学雑誌よりも一論文のページ数が少なく、その分実験方法の記述も簡単になります。また、企業秘密、特許の問題もあり、方法が全ては明かされていないとも思われました(このあたりも、今回のSTAP論文問題と同じですね)。
だれも、その機械を見たものはなく、誰も彼の実際の実験を見たものはなかったのに。共同研究者すらです。
(小保方研究は「極秘」…勉強会でも発言を辞退:読売新聞 4月2日)
しかし、徐々に疑いを持つ人々が現れます。しかし簡単に告発はできません。
科学は、批判から生まれます。常識や定説を疑います。個々の研究を疑います。この方法はだめだとか、この統計処理は不十分だとか、この考察はおかしいといった議論を活発に行います(科学の「知」:科学者は、どうやって何かを「知る」のか)。
しかし、「この実験を実際には行っていないだろう」という批判は、普通ありえません。
■「ネイチャー」はウソと不正を見抜けなかったか
今回のSTAP細胞論文においても、「ネイチャー」は見抜けなかったのかと言われています。シェーン論文捏造問題も同様です。『論文捏造』の著者は、編集部を取材しています。回答はこうでした。
「私たちは警察ではありません。論文のひとつひとつを、不正ではないかと疑いの目で見てすべて調べることなど、実際にはできません。私たちの責任の範囲ではないと思います。」
これを、無責任な態度とお思いでしょうか。研究雑誌にはレフェリー(査読者)がつきます。投稿された論文を審査します。私も経験がありますが、論文内の部分部分は審査出来ますが、論文自体が捏造かどうかを調べる力も権限もありません。
大学院で指導している学生には、指導しながらローデータ(生のデータ、平均を取ったりする前のデータ)を見せてもらいながら指導することもありますが、査読者はそこまで要求はしないでしょう。
科学の常識的にあり得なければ審査を通すべきではないでしょうか(そういったこともあり得ますが)。でも、そんなことばかりしていたら、科学の発展は止まってしまいます。
無名の研究者からの投稿論文とはいえ、大研究所に所属し、大先生が共著者に名を連ねている論文が、ミスや不十分さではなく「捏造」だと疑い、それを証明し、審査を通さないことは、現実上不可能でしょう。
■ヘンドリック・シェーン論文捏造発覚
シェーンの論文に違和感を感じる人々が、ベル研究所の内外で出始めます。最初の疑いは、データがきれいすぎることでした。その疑問に、シェーンは賢く上手に回答します。実験に使った実際のサンプルを見せて欲しいと言っても、彼は忘れたとか良いものがないなどと、のらりくらりとごまかします。
しかし、とうとうデータの使い回しが発覚します。複数の論文で、ノイズも含めた細かいデータまで一致するデータが発見されました(これも、今回のSTAP論文問題と同様です)。
彼は、単純な「ミス」とか「見栄えを良くしようとしただけ」と説明しますが、調査委員会は「捏造」としました(これも今回のSTAP細胞論文問題と似ています)。
人々は、実際の「マジックマシーン」を見ます。それは、ただの旧式の安物の機械でした。人々は実際のサンプルを見ます。それは、とても超伝導が起きるとは思えない雑なものでした。
2002年、ベル研究所は調査報告書を発表し、シェーンを解雇しました。新聞が論文捏造を一面で報道しました。
「調査委員会、捏造を認める」
「ベル研、スター科学者を不正行為で解雇」
マスコミが大きく報道したのも、STAP細胞論文と同様です。処分の点は違いますが。
ベル研究所では、共同研究者に不正はないとし、不問としました。これも、STAP細胞論文と同様ですね。
シェーンを支持してきたバトログ博士は、途中で疑問をもっても当然だったのに、最後の最後まで不正を認めませんでした。今回のSTAP論文のアメリカでの共著者バカンティ博士も、研究成果自体の不正、捏造は証明されていないと述べています。
(バカンティ教授、理研の不正認定「結論に影響しない」TBS系(JNN) 4月2日)
(科学的根拠に影響ない~バカンティ教授:日本テレビ系(NNN) 4月2日)
■不正指摘の難しさ
「捏造」と結論づけられた後も、シェーンは「実験結果は真実だった」と言い続けています(これもSTAP細胞論文と同様)。
調査委員会が「捏造」と結論づけるためには、とても手間のかかる調査が必要でした。
たとえば、「ローデータ(生のデータ)も研究ノートもサンプルも捨ててしまった、データの使い回しは単純なミス、再現しろと言われても成功確率が小さいのですぐには無理、しかし発表した研究結果自体は嘘偽りのない真実」と言われたらどうしたら良いでしょう。
(小保方氏実験ノートずさん、3年で2冊・断片的・日付も不正確:読売新聞 4月2日)
常識的にはあり得ないとしても、それを実証するのは難しいでしょう。「疑わしきは被告人の有利に」という発想でいけば、彼を処罰することはできません。だから、調査委員会は綿密な調査を重ねる必要がありました。
他の研究者も捏造発覚前に、捏造だと告発するのはとても難しいでしょう。私が誰かの研究論文を「改ざんだ、捏造だ!」と公言して、でも結局それを実証することができず、相手から逆に名誉毀損で訴えられたらどうでしょう。
今回のSTAP細胞論文では、ネットが活躍しました。もしもネットでの疑問点の指摘がなければ、問題発覚はさらに遅れていたでしょう。
(STAP細胞”事件”を巡るネット集合知のパワー:BLOGOS:2014.3.17)
(STAP細胞、存在するのか 試料ずさん管理・作製方法混乱…検証難航:産経新聞 3月27)
■追試(再現実験)
ヘンドリック・シェーンのすばらしい超伝導も、STAP細胞も、本当にあればすばらしいと思います。では、だれかがそれを確かめれば良いでしょう。しかし、すばらしい研究であれば、世界中の研究者が自分もやってみようと思います。けれども、捏造とされた研究論文をもとに、莫大な時間と費用をかけて確認しようと言う人はいないでしょう。
今回理研は、責任上検証することになるのだと思います。
■なぜ捏造したのか
『捏造論文』の中で、著者らはヤン・ヘンドリック・シェーン本人に取材を試みます。しかし彼は一切の取材を拒否し、今も研究は真実だったと言っています。後に彼は、大学在学中にも論文の不正があったことが明らかにされています(これもSTAP論文問題と同様)。しかしそれでも、彼の友人によれば、昔も今も彼は良い人であり、彼を信じたいと言っています。
なぜ彼がこんな大規模な論文捏造をしたのかは、謎のままです。彼の心の中はわかりません。
小保方晴子さんの心の中も今のところわかりません。調査委員会の結論は出ましたが、真実はまだわかりません。小保方さんを信じたいと思っている人も、たくさんいるでしょう。
■科学もかかえる科学的ではない問題
どんな無名な若造がやった実験でも、その実験結果自体がすばらしければすばらしいと評価できるのが、実証科学の良い所です。しかし実際は、その研究者の所属や共著者の知名度が影響を与えることはあるでしょう。
どんな専門家も、聡明な科学者も、人間が持つ心のワナからは自由になれません。一度正しいと信じれば、心理学的に言えば「確証バイアス」が働き、疑うことが難しくなります。また権威には弱いものです。研究を疑い批判することはできても、人を疑うことは難しいかもしれません。
その自覚が必要ではないでしょうか。人は小さな嘘なら見抜けても、想定を超えた大きな嘘は見抜けなくなります。
私たちはいつも騙されてきました。もちろん、だから科学者など信用できないというのも、極端です。まじめな研究者らが研究しづらくなっても困ります。
それでも、健全な批判精神を持ち続けること、チェック体制を整えることが必要なのでしょう。
(STAP細胞論文問題 理化学研究所、再発防止策検討など開始へフジテレビ系(FNN) 4月2日)
補足(2014.4.17)→
STAP論文共著者・副センター長笹井芳樹氏会見「STAP現象は合理的で有力な仮説」
(2014.6.4)
STAP論文撤回決定。「仕方なかった。悲しい」小保方氏、苦渋の選択
日本テレビ「ザ・仰天ニュース」にて、ヘンドリック・シェーン超伝導論文ねつ造事件の再現ドラマ放送。
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小保方晴子氏反論記者会見:論文捏造の真偽は?天才かペテン師か?:Yahoo!ニュース個人「心理学でお散歩」
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『論文捏造』(中公新書クラレ228:松村秀 著)中央公論社