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アレックス・マエストリ投手引退。「日本球界初のイタリア人選手」のキャリアを振り返る。

阿佐智ベースボールジャーナリスト
現在はイタリアでスポーツショップを経営するアレックス・マエストリ氏(本人提供)

 2012年から4シーズン、オリックスでプレーしたアレックス・マエストリ投手の引退が報じられた。「引退」と言っても、ここ数シーズンは、母国イタリアのセミプロリーグで事業を行いながらプレーしていたので、事業の方に専念するということだろう。彼の母国、イタリアでは「プロ野球」選手といえども、兼業が当たり前で、トップリーグでプレーしなくなっても、下位リーグではプレーを続けることは珍しくはないので、プロ契約の上でのプレーはもうしないということだろう。

 彼以前にも、阪神タイガースで、1964年にメジャー経験もあるレノ・ベルトイア、1981年にスティーブン・ラムというふたりのイタリア生まれの選手がプレーしていたが、それぞれ幼少時にカナダ、アメリカに移住した移民1世というべき存在で、イタリア育ちの「純粋な」イタリア人選手は日本球界ではマエストリが初である。

 彼には、2012年の独立リーグでの日本でのキャリアスタート以来、何度か取材し、顔を合わせている。とにかくハンサム(彼を前にするとイケメンなどという流行言葉など陳腐に思える)で、ナイスガイ。偶然駅で出くわしても、仕事を超えた友人として接してくれた。力のある速球と鋭いスライダーを投げ込んでいた彼も今年で36歳。野球だけで食べていくことの難しいイタリアでは、ここが潮時だったのだろう。彼へのはなむけとして、日本野球史上屈指の「男前」である彼のライフヒストリーを振り返ってみたい。

カルチョの国で生まれ育った剛腕

 カルチョ(サッカー)の国、イタリアにあって北部パダノ・ヴェネタ平野は「野球処」として知られる。この平野の南縁の町、チェゼーナで生まれた本名アレッサンドロ・マエストリは、アドリア海に面した町、リミニで幼少期を送った。6歳の時、町のチームが学校で開いた野球教室に兄と参加したのが、野球に出会ったきっかけだと言う。2004年19歳で、リミニの町から少し内陸に入った独立共和国のチーム、サンマリノに加入。このシーズンをユースチームで過ごすと、その実力が認められ、プロ契約を結び、トップチームに昇格した。ただしこの頃のイタリアトップリーグは、本質的にはアマチュアリーグのセリエA1。プレーで手にする報酬は、給与というより手当といった方が適切で、月に手にするギャラはわずか300ユーロというものだった。

ここでも彼は頭角を現し、翌2006年春に開催された第1回WBCでは、代表チームの一員として強豪ドミニカ戦で国際舞台デビューを果たしている。この時のことを彼はこう振り返る。

「楽しめたよ。2アウトしか取れず、ホームランも打たれたけどね。テレビやベースボールカードでおなじみの顔が、並んでいたので、すごく興奮したよ。もっとも野球をプレーしているというより、ビデオゲームをしているようだったけど。」

打たれはしたものの、優勝候補相手の堂々したピッチングスタイルと、150キロ超の速球はMLBのスカウトの注目するところとなった。大会後、彼はシカゴ・カブスと契約を結び、A級のボイジー・ホークスでアメリカでのプロキャリアをスタートさせることになった。

AA級初の「イタリア人」選手に

 その後も、マイナーの階段を駆け上っていき、2008年には、イタリア生まれ、イタリア育ちの選手として初めてAA級に昇格した。その一方で、母国イタリア代表の主戦投手としても活躍。2009年の第2回WBCのメンバーにも名を連ねた。 

 しかし、「イタリア人初のメジャーリーガー」の称号は得ることはできず、シアトル・マリナーズの三塁手、アレックス・リディに譲ることになった。リディが初めてMLBの舞台に立った2011年シーズン直前、マエストリはカブスをリリースされ、独立リーグのアメリカン・アソシエーションにプレーの場を移すことになった。

 このリーグのチーム、リンカーン・ソルトドッグスの先発投手として8勝を挙げたマエストリは、そのオフ、オーストラリアのウィンターリーグにも参加、現地プロリーグABL初のイタリア人選手として、マウンドに立った。資金不足のリーグへの参加とあって、オーストラリアへの移動費は自腹、報酬は月1200ドルというものだったが、マエストリはその低待遇も未来への投資と割り切った。彼は当時をこう振り返る。

オーストラリア・ウィンターリーグのブリスベン・バンディッツでの活躍が飛躍のきっかけとなった。(SMP Images)
オーストラリア・ウィンターリーグのブリスベン・バンディッツでの活躍が飛躍のきっかけとなった。(SMP Images)

「当時はフリーエージェントの身だったからね。それにMLB傘下のマイナーリーガーは、ギャラなしでプレーしていたから報酬が出ていただけラッキーだよ。」

 その「投資」は、大きな見返りとなって返ってきた。

日本で咲かせた大輪の花

 ブリスベン・バンディッツの先発投手として4勝4敗、防御率3.25というまずまずの成績を残した彼は、リーグ関係者の勧めもあり、2012年シーズンを日本の独立リーグで過ごすことにした。母国にすでに発足していたプロリーグ、IBL(現在はセミプロリーグに改組)からも、前年プレーしていたアメリカの独立リーグからもオファーはあったが、新しい経験がしたいと四国アイランドリーグplusの香川オリーブガイナーズに新天地を求めたのだ。

香川オリーブガイナーズのクローザーとしてタイトルも獲得した。(筆者撮影)
香川オリーブガイナーズのクローザーとしてタイトルも獲得した。(筆者撮影)

 150キロ代半ばの速球と大きく曲がるスライダーで彼はリーグ屈指のクローザーとして活躍した。これに目をつけたのがオリックス・バファローズで、二軍との交流戦の際、香川球団にマエストリの先発登板を要望。マエストリは敗戦投手になったものの、プロ(NPB)でプレーする自信を深め、オリックスの方も、彼を戦力として十分と判断した。

 2012年7月4日。オリックスはマエストリの獲得を発表した。その後の彼の活躍は周知のとおりである。在籍4年で96試合に登板。14勝11敗2セーブ、防御率3.44の数字を残した。この間、神戸で出会ったアルゼンチン出身の女性を妻に娶った。

空いた時間には日本語を勉強するなどオリックスでもチームに溶け込んだ。(マエストリ氏提供)
空いた時間には日本語を勉強するなどオリックスでもチームに溶け込んだ。(マエストリ氏提供)

 その後、2016年シーズンは韓国プロ野球のハンファ・イーグルスを経て日本のルートインBCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスでプレー。チームの優勝に貢献した。2017年にメキシカンリーグでプレーした後、翌年にはプロキャリアを始めたサンマリノに復帰。同時にスポーツショップを開き、イタリアではなかなか手に入りにくい野球道具を販売している。その一方で、2018-19、2019-20年の2回の冬のシーズンにはオーストラリア球界に復帰。シドニー・ブルーソックスの主力投手として活躍していた。そして、昨年もサンマリノのエースとして7勝負けなし、防御率1.05と大車輪の活躍でチームを優勝に導いたが、36歳になる今シーズンを前に余力を残しての引退を決めた。

2017年シーズンはメキシカンリーグのベラクルス・レッドイーグルスでプレーした。(マエストリ氏提供)
2017年シーズンはメキシカンリーグのベラクルス・レッドイーグルスでプレーした。(マエストリ氏提供)

 自身の野球キャリアを語る中で彼は、「旅」という言葉を頻繁に使っていた。母国イタリアからアメリカに渡り、日本で全盛時を送り、韓国、メキシコ、それにオーストラリアのウィンターリーグ。プロキャリアを始めた小共和国、サンマリノを含めれば実に7か国でプレーしたことになる。まさに彼の野球人生は長い旅だったと言えるだろう。かつて彼は、その旅がいつ終わるのか自分にはわからない。だからこそ、「今」を大事にしたいと語っていた。

 そして、今、自身の現役生活をこう振り返る。

「素晴らしい人々に出会え、さまざまな文化を知ることができて幸せな野球人生だった。」

故郷リミニでのスポーツ店経営を通じてイタリア野球界の発展に今後も邁進する。(マエストリ氏提供)
故郷リミニでのスポーツ店経営を通じてイタリア野球界の発展に今後も邁進する。(マエストリ氏提供)

 世界中を巡る長い旅を終えた彼は、夫人とともに立ち上げたスポーツショップを経営しながら、イタリア球界の発展にも引き続き貢献していく予定だ。前向きな彼のことだから、プロ野球選手として海を渡る際に中退してしまった大学に復学して先行していた生物学を修めるかもしれない。彼の今後の人生に幸あらんことを願う。

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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