【戦国こぼれ話】織田信長はまったくの味音痴で、旨いものを食っても「まずい!」と怒る男だった
テレビを見ると、連日のようにグルメ番組が放映されている。味の好みはさまざまであるが、織田信長はまったくの味音痴で、旨いものを食っても「まずい」と怒ったという。その話の真偽はいかに?
■中世の料理
15世紀の終わり頃には、『四条流包丁書』という料理法に関する故実書が刊行された。四条流は四条中納言藤原山陰を祖とし、料理法のほか、配膳法や食作法などを定め、広く食文化に影響を与えた。
同書によると、おいしいものは上が海のもの、中が川のもの、下が山のものであると記されている。例外として、川のものは中であるが、魚では鯉が極上であるという。鯉と同格に位置付けられたのが、鯨だった。
『四条流包丁書』には、刺身の調味料についても詳しく書いている。鯉は山葵酢、鱸は蓼酢、鱶と鱏は実辛子酢、カレイはぬた酢と定められていた。
足利将軍家の包丁人・大草公次を祖とする大草流の故実書『大草家料理書』には、鯛を刺身にするときには、からしをつけるのが一番であると書かれている。
料理法や調味料の選択は、各流派によって違ったようだが、味の好みはさまざまだったのも事実である。
次に、織田信長の逸話を紹介することにしよう。
■織田信長の逸話
三好氏の滅亡後、坪内某なる料理人が織田家に生け捕りにされた。坪内某は鶴や鯉の料理に優れ、饗宴の膳も作るほど優れた腕を持っていた。今風にいうならば、カリスマ料理人ということになろう。
あるとき、坪内某の料理の腕が優れているので、織田家の料理番をさせてはどうかという話になった。その話を聞いた信長は、坪内某に明朝の食事を作らせることにしたのである。
翌朝、信長が試しに坪内某の作った料理を食べると、「水臭い(味が薄い)」と怒り出し、坪内某を「殺してしまえ」と指示した。
坪内某はかしこまって、「もう一度作らせてください。それでも、もしまずかったら、腹を切っても構いません」と懇願した。
信長は坪内某の謝罪に免じて、いったん許したという。翌日、信長が坪内某の料理を食べると、その味のうまさに大変驚き、喜びのあまり坪内某に禄を与えようとした。いったい何が違ったのか?
実は、信長が坪内某の料理を激賞したのには理由があった。三好家は将軍に仕えるなどし、京風の薄味を好んでいた。しかし、信長は尾張の田舎者なので、味が濃いものを好んでいたのだ。
ゆえに信長は、坪内某の作った料理のあまりの味の薄さに怒ったのだ。そのことに気付いた坪内某は、塩加減を濃い目にして料理を提供したところ、信長は大変喜んだというわけである。
ただ、坪内某は、濃い味の料理を田舎風と揶揄していたと伝わっている。信長に謝罪して許しを乞うたものの、心の中ではバカにしていたのである(以上『常山紀談』)。
とはいえ、この話は後世に成った『常山紀談』に書かれたものなので、真偽については疑問とせざるを得ない。
■まとめ
当時はまだ現代のように、塩分の取り過ぎに対する意識は低かった。食卓に並ぶおかずの種類も少なく、味付けの濃いおかずで飯を掻き込んでいた。一説によると、当時の人々は肉体労働が主だったので、1日に5合もの飯を食べていたという。
とはいえ、現代では大量に糖質を接種したり、塩分の濃いものをたくさん食べるのは病気のもと。それこそ「京風の薄味」に慣れるのが一番のようだ。