あまりにブラックすぎて、上司にしたくない最低最悪な3人の武将
世間ではブラック企業やワンマン経営者の悪評が絶えない。最近もニュースになっている。今回は、鎌倉、室町、戦国の各時代において、あまりにブラックすぎて、上司にしたくない最低最悪な3人の武将を紹介することにしよう。
1.源頼朝(1147~1199)
頼朝は鎌倉幕府の初代将軍であるが、少年期に父親を殺され、伊豆で流人生活を送ったので、非常に猜疑心が強かったといわれている。挙兵した際、豪族の上総広常が大軍を率いて馳せ参じたが、のちに謀反の嫌疑を掛けて惨殺した(その後、無罪が判明した)。
それだけではない。弟の源義経は平家追討で軍功を挙げたが、奔放な振る舞いをしたので許さず、奥州で討った。同じく弟の源範頼も謀反の疑いが掛けられ、伊豆に流罪としたうえで討伐した。頼朝は兄弟であっても、疑いがあれば、躊躇なく討ったのである。
2.足利義教(1394~1441)
義教は籤引きで将軍に選ばれたせいもあり、非常に疑り深い人物だったといわれている。それゆえ、ささいなことで、多くの人を厳しく処分した。妙な噂を流した高倉永藤は、硫黄島へ流罪になった。日蓮宗の僧侶の日親は、説教ができぬよう舌を切られ、熱した鍋をかぶらされた。
鎌倉公方の足利持氏は、対抗心をあらわにしたので、義教が送り込んだ軍勢に討たれた(永享の乱)。義教の意に反した土岐持頼、一色義貫は、大和出陣中に暗殺された。まさしく「万人恐怖」の世だった。義教自身は、次に討とうと思っていた赤松満祐に殺害され、非業の死を遂げたのである(嘉吉の乱)。
3.豊臣秀吉(1537~1598)
秀吉は「人たらし」と知られる反面、非常に残酷な人物だった。フロイス『日本史』によると、秀吉には腹違いの兄弟姉妹がいたらしいが、世間の人に知られるのを恐れた。そこで、その兄弟姉妹を呼び寄せると、無残にも殺害したといわれている。
秀吉には子がなかったので、秀次を養子に迎えたが、徐々に対立の様相を示した。すると、秀吉は秀次に切腹を命じ、その妻子を皆殺しにした。秀次の首は埋葬されたが、「畜生塚」、「秀次悪逆塚」と称された。秀吉の仕業と考えられるが、もはやブラックの域を超えているといわざるを得ない。