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吉川広家は、関ヶ原合戦で毛利氏を救った救世主だったのか。その真相を探る

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
岩国城の天守。(写真:イメージマート)

 過日、作家の周防柳さんが岩国領主・吉川家の歴史や架橋の経緯をたどり、新作を構想中という記事を目にした。こちら。吉川家が江戸時代も生き残ったのは、吉川広家のおかげだった。

 関ヶ原合戦において、西軍の総大将だった毛利輝元を東軍に引き入れたのは、毛利家一門の広家である。広家は毛利家を救った救世主のようにいわれているが、それが事実なのか検討することにしよう。

 吉川広家は元春の三男として誕生したので、本来は家督を継ぐ可能性が低かった。しかし、天正14年(1586)から翌年にかけて、元春と嫡男の元長が相次いで亡くなったので、吉川家の当主の座は広家のもとに転がり込んできたのである。

 以降、広家は毛利輝元配下の政僧・安国寺恵瓊とともに、毛利宗家を支えることになったのである。

 慶長3年(1598)8月に豊臣秀吉が亡くなると、五大老の筆頭格だった徳川家康が台頭した。これを快く思わなかったのが輝元である。輝元は反家康の急先鋒であり、その輝元を支持したのが恵瓊だった。むしろ広家は、反家康という姿勢には慎重な態度を示していた。

 慶長5年(1600)7月、石田三成らが家康に対して挙兵すると、輝元は早々に大坂城に入り、西軍の総大将となった。しかし、広家は慎重な姿勢を崩さず、黒田如水・長政親子と連絡を取り、東西両軍のいずれが有利かを調査した。

 その結果、広家は東軍が有利と確信し、輝元を東軍に引き入れたのである。条件は、毛利氏の本領安堵だった。その結果、東軍は西軍に勝利したのである。

 戦後、輝元は本領安堵されるはずだったが、開戦前に伊予・阿波に攻め込んだことが家康に露見し、本領安堵どころか改易すら検討されることになった。

 このとき広家は輝元の代わりに登用されることになっていたが、その話を辞退したうえで、毛利宗家の改易を思い止まってほしいと懇願した。広家の懇願もあり、輝元は改易を免れ、周防・長門に転封という軽い処分で済んだのである。

 ただし、広家が登用される話を辞退し、毛利宗家の存続を願ったというのは、今ではフィクションとされている。それどころか、広家は輝元が改易されたのは、輝元が与り知らぬところで恵瓊が独断専行でことを進めたからだという話を広めた。以降、恵瓊は毛利家の敗北の責任を負わされ、盛んに貶められたのである。

 広家が毛利家の救世主といえば、たしかにそうなのかもしれない。広家がいなければ、毛利家は確実に破滅していた。とはいえ、広家は毛利家のために情報収集をしたのかもしれないが、実際にはそれが自分の身を守ることになったので、必然的にそうしたのである。

主要参考文献

光成準治編『シリーズ・織豊大名の研究 第四巻 吉川広家』(戎光祥出版、2016年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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