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会津征討に向かった徳川家康は、いつ石田三成らの挙兵を知ったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
江戸城の石垣。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、石田三成が毛利輝元らと結託し、徳川家康に対して挙兵した。しかし、当時はスマホもメールもなかったので、家康がすぐに知るすべはなかった。いったい、いつ家康は西軍諸将の決起を知ったのか、考えてみることにしよう。

 慶長5年(1600)7月17日、三奉行(長束正家、増田長盛、前田玄以)が「内府ちかひの条々」を諸国の大名に発し、「打倒家康」の檄を飛ばした。むろん、この動きには、西軍の首脳とされる三成や輝元らも加わっていた。

 「内府ちかひの条々」が発せられた7月17日の時点で、まだ家康は江戸城に滞在していた。家康が江戸城を出発したのは7月21日のことなので、この時点ではまだ三成らの決起を知らなかった。

 三成らが挙兵してからわずか4日では、情報が江戸まで届かなかったのは当然のことである。いつ、家康は西軍の諸将が決起したことを知ったのだろうか。

 7月22日、家康は病気で出陣が叶わなかった美濃国妻木城(岐阜県土岐市)主の妻木頼忠に対して、上方の情勢を監視し報告するように命じた(「妻木家文書」)。明確には書かれていないが、この時点で家康が三成らの挙兵を知っていた可能性がある。そうでなければ、そのような指示をしないであろう。

 7月23日、家康は最上義光に書状を送り(『譜牒餘録後編』)、三成と大谷吉継が触状(「内府ちかひの条々」)を諸大名に回付し、さまざまな噂が広まっているので、上杉景勝への攻撃を中止することとし、のちに命令を下すことを伝えた。

 この段階に至って、家康は西軍の決起を知ったので、対策を考えることにしたのである。つまり、家康は三成らが挙兵してから1週間ほど経過してから、ようやくその事実を知ったのである。

 これまでの経過を見る限り、家康は遅くとも7月23日の時点で西軍の挙兵を確実に知ったといえよう。その時点ですぐに対処しなかったのは、豊臣政権を支えているのは家康自身であるという自負があり、西軍の決起は大した問題ではないと判断したからだろうか。

 あるいは、三成と吉継が挙兵した程度の情報しか得られず、輝元らが関与したとまでは伝わらなかったのだろうか。三成や吉継は小禄だが、輝元、宇喜多秀家らは大禄だったので、まったく対応策が違ってくる。

 「内府ちかひの条々」は家康与党だったはずの三奉行(前田玄以、長束正家、増田長盛)が、副状とともに各地の大名に決起を促すものだった。それは小規模で局地的な決起ではなく、列島全体を巻き込んだ大規模な戦争である。

 その後、西軍決起の全貌をつかんだ家康は、おそらく大いに驚いたことだろう。こうして家康は、挙兵した西軍への対応を迫られたのである。

主要参考文献

渡邊大門『関ケ原合戦全史 1582-1615』(草思社、2021年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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