「心肺停止」表現のやさしさと厳しさ:御嶽山ご遺族のため、警察消防自衛隊員のため:両者の心のケアのため
■心肺停止状態とは
かつて死火山と言われていた御嶽山の噴火。今日10月4日も、心肺停止状態で4名の人が発見された。
心肺停止状態とは、心臓が止まり、息をしていない状態だ。「死亡しているおそれがあるが、医療的に正式な死亡が宣言されていない」とも言えるだろうが、今回のような状況では、申し訳ないが実際上はすでにお亡くなりになっている方と言えるだろう。
心肺停止でも、行方不明でも、「奇跡を信じたい」というご家族の思いは、痛いほどに伝わってはくるが。
■日本人と命、人命救助活動
どこの国でも命は大切にするだろう。だが、日本の人命救助の態度と技術は、本当にすばらしい。欧米なら、犯人逮捕のために早期に警察隊が突入して解決するような人質事件でも、日本の方が長い時間をかけて人質全員救出を考えるだろう。
辛坊治郎さんと友人の全盲のセーラーがヨットで遭難した時も、海上自衛隊の飛行艇による救出は、奇跡的だった。他の国であれば、お二人は亡くなっていただろう。
今回の御岳山噴火に伴う救出劇も、すばらしい。いつ噴火するか分からない標高3000メートルを超える火山に、ヘリコプターで、また地上から続々と救助隊が入っている。警察、消防、自衛隊。技術的にも、精神的にも、その人命救助活動は世界に誇れるだろう。
一部で「決死隊」という言葉も聞かれているほどだ。
救命活動はすばらしい。しかし、二次被害は絶対に避けなければならない。どんなに鍛えられたプロの人たちであれ、彼らの命と体と心を守らなければならない。
■生きているか、亡くなっているか
死亡が確認されなければ、生きていると考える。当然だ。家族や親友なら、だれもが、そう思うだろう。常識的には死亡していると思われる場合も、そのご家族は、「家族」であって「遺族」ではない(テレビ等で言い間違えて批判される人がたまにいる)。
家族が自宅で亡くなったり、外で事故死した場合、救急車は遺体を運んではくれない。自宅で亡くなり、医師の死亡診断書がもらえないと、変死扱いになる。遺族にとっては辛いことだ。
救急車を呼ぶ。救急隊は、明らかに亡くなってると判断すれば、そのまま帰ろうとする。家族の中には、かなり強引に、死んでいるかどうかはわからない、病院へ運べと、救急隊を説得する人もいるという。病院へ行けば、最後の蘇生法を施してくれるかもしれない。そうでなくても、丁寧に扱ってもらえるだろう。
家族の気持ちはわかる。ただ、本来救急隊は、本当に救命が必要な人のために待機しなければならないのだが。
■日本人と遺体
日本で人が亡くなると、葬儀があり、火葬があり、みんなで遺骨を骨壺に入れ、納骨も家族が立ち会う。とても時間と手間ひまをかける。
家族が亡くなる悲しみは、万国共通だろう。だが、遺体に関する考えは、文化によって違う。日本人は、遺体を非常に大切にする。アメリカの葬儀の場面で、墓穴に棺が降ろされると、家族や友人が静かに去っていくシーンがある。日本人の感覚なら、墓に埋められ、土がかぶされるその最後まで見届けたいだろう。
アメリカ同時多発テロ9.11の時も、崩れた超高層ビルの残骸の中に、まだ多くの行方不明者がいると思われるときに、アメリカは重機を入れて、がれきの処理を始めている。常識的には生きている人はいない。可能性は0である。しかし日本なら、まだまだ捜索するだろうと、その時感じた。
生存者が一人もいなくても、重機など入れたら、遺体が傷つく。日本人にとっては、それは耐えられない。しかしアメリアは、感傷に浸るよりも、前に進もうとするのだろう。
今、この文章を書いていて、「まだ多くの行方不明者が」と書いてしまった。客観的には、「多くの遺体」だろうが。
■「心肺停止状態の人の救助」
今回のニュースを聞いていると、「心肺停止状態の登山者の救助」といった表現が見られる。まだ亡くなっていないのだから、「救助」だろう。しかし、ご家族には申し訳ないが、実際はご遺体だ。
お亡くなりになった故人のことは、大切にしたい。ご遺体も丁寧に扱うべきだ。ご遺族の慰めを心から願う。しかし、そうであっても、大切なのは、亡くなった人よりも生きている人ではないだろうか。
人命救助のための「決死隊」は、場合によってはあり得るかもしれない。しかし、遺体捜索のための「決死隊」は、考えられない。
「遺体の捜索」ではなく「登山者の救助」という表現を使うことで、救助隊に必要以上の負担をかけていることはないか。安全性に、身体に、心に、負担をかけていることはいないか。
テレビ報道を見ていると、数日たって「救助」された「心肺停止状態」の方々は、遺体用と思われる袋に入れられ、そして救急車ではない車両で運ばれている。
■被災地で働くプロを守れ
プロも傷ついている。東日本大震災でも、阪神淡路大震災でも、御巣鷹山のジャンボジェット墜落事故現場でも、福知山線脱線事故現場でも。大災害や大事故の現場で、警察も、消防も、海上保安庁も、自衛隊も、医療従事者も、みんな傷ついている。
どんなに心身ともに鍛えられているプロだからといって、こんな大災害、大事故に遭遇することは、そうそうはない。
墜落現場で活動した人の中に、その後、デパートで手だけや足だけのマネキンを見ると体が震えたという人がいる。手や足だけの様子をたくさん見たからだ。阪神大震災では、多くの住民からの依頼を断って火事現場に向わなければならなかった消防士が、その苦しみを語っている。
東日本大震災では、プロや消防団の多くの人が死んでいる。懸命に働いたのだが、もっと救えたのではないかと、自分を責めている人もいる。大量の悲惨な遺体の捜索で深く傷ついている人も多い。
彼らは、強いプロフェッショナルだ。だから、弱みを見せることが難しい。
二次被害による犠牲を避けるのは言うまでもないが、大事故現場や被災地で働くプロを守ろう。
今、プロの方々の「惨事ストレスケア」は、大きな問題になっている。その時は耐えられても、後に退職する人々もいる。
プロの方々であっても、悲惨な遺体を扱うのは辛い。作業がなかなかはかどらないのは辛い。
今、御嶽山で救助活動をしている人を責める人は普通はいないだろう。だが、「遺体捜索」ではなく「(心肺停止状態の)登山者救助」とすることは、プロの方々の惨事ストレスを悪化させないかと危惧している。
■ご家族、ご遺族のみなさまを守るために
基本は、安心安全と情報を提供することだろう。できるだけ快適な衣食住、今回のことと関連する様々な悩みへの支援、迅速で的確な情報が必要だ。その上での、いわゆる心のケアだろう。
ある行方不明者ご家族が、インタビューに答えて、顔は出さずに、苦しそうな嗚咽をもらしながら、おっしゃっていた。
「救助隊のみなさんは、本当に一生懸命に命がけで頑張ってくださっていると思う。心からありがたい。しかし、メールを出しても返事が来ず、電話にも出てもらえない。(そんなことはないと分かっているが)人々が笑っているような気がするんです」。
理屈では、懸命な救助捜索活動が行われていることはわかっている。わかってはいるが、心が追いつかないのだろう。この方が、取り乱して、救助隊に大声で叫んだりすれば、救助隊もさらに傷つくだろう。
ご家族のみなさんに、安心安全を届けたい。適切な情報と、一緒にいてくださる方を届けたい。