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ロック・ミュージシャン偉人伝映画が大流行! アメコミ映画との深い関係とは?

『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年)(写真:Splash/アフロ)

音楽伝記映画の連発時代が始まった

 エルトン・ジョンの次は、ボブ・ディランのニュースが大きな話題に――というとまるで、70年代にタイムスリップして当時のロック雑誌を眺めてるみたいなのだが、しかしそうではない。みなさんご存じのとおり、これが2020年1月現在の「映画界の最新トピック」のひとつ。エルトン・ジョンの伝記映画『ロケットマン』が今月5日に米ゴールデングローブ賞で2部門を制したと思ったら、直後、ボブ・ディランの伝記映画の製作が発表されて、音楽ファンおよび映画ファンの耳目を集めた。まるで競争してるみたいに!

 そう、いま米英では音楽伝記映画(Music Biopic Movie)の一大ブームが巻き起ころうとしているのだ。今般はおもに、ロックやポップ音楽アーティストの人生に材を取り、音楽を満載したエンターテインメントとして仕上げるのが主流となっている。ディランもののほかにも、同趣向の企画が目白押しとなっているのが現状だ。

 本稿では、このブームの正体を分析しつつ、同ジャンルの「次なる成功作」の予想をも試みるものだ。そこからはきっと、映画のみならず、エンタメ産業全体における「新たなるヒット銘柄」のヒントすら見えてくるに違いない。

 さてこの音楽伝記映画ブーム、直接的な契機はやはり、英ロック・バンドのクイーンの伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』(18年)のメガヒットのせいだ。記録的な興行収入だけではなく、各種映画賞を獲得しまくるという、この上ない成功作となった。だから「柳の下」を狙う口が出てくるのは当然――なのだがしかし、そもそもは「音楽伝記映画」なんて、とくにメジャー映画会社が我先にと大金を投じて「作りたがる」ジャンルではなかった。基礎的な打率が悪いというか、シュアなヒットが見込めるものじゃなかった。そこに根本的な一大変化が起きたのが、現在だ。

『ボヘミアン・ラプソディ』成功の方程式とは?

 つまり『ボヘミアン・ラプソディ』が「あそこまでの『規模』でヒットした」というのが、きわめて異例だった=だから「新しい鉱脈」に見えた……という図式となる。では、なぜ同作があれほど売れたのか?というと、つい「クイーンの音楽がよかったから!」と即答してしまいそうになるのだが、いや待った待った。より正確には、こうだ。

「クイーンの楽曲特有の『音楽的快楽』を存分に堪能できるように」

「クイーンを愛する人々の『ファン心理』を、できうるかぎり尊重するように」

 ~これら2つの要素を「満たす」ことを第一義としたかのような真面目な映画づくりがきっちりとおこなわれていた、こと。これが最大の勝因だ。

 この2つの要素を満たすことこそが、「音楽伝記映画」が成功するための必須条件、いや「黄金律」にほかならない、と僕は考える。上記の「クイーン」のところを、そのとき題材となったアーティストやバンド名に入れ替えてみればいい。

 と書くと「なにを当たり前のことを」と、あなたは思うだろうか? 「そんなことぐらい、どんな映画製作者だって重視しているでしょう」とか。まあ、その「つもり」の人は多かった、のかもしれない。だがしかし、それが「ファンの側」から認めてもらえるかどうか、というと……じつは、ここが「かなり」難しい。ここの打率が、はっきり言って低い。ゆえにこれまでの「音楽伝記映画」の歴史には、失敗作のほうが圧倒的に多い。

映画版『ドアーズ』を憶えているかい?

 こうした失敗の代表的な例が91年公開の『ドアーズ』だ。名匠オリヴァー・ストーン入魂の一作であり、主演のヴァル・キルマーの熱演は(歌唱も)評価されたが、いかんせん映画のなかのジム・モリソンが「ファンが見たい人物像」ではまったくなかった。メンバーのレイ・マンザレクと監督の確執も伝えられ、同作はドアーズ・ファンを中心とした酷評の嵐を浴び、製作費3,800万ドルに対して全世界興収3,400万ドルと、かなり手痛い失敗作となってしまう(ゆえに、この後一時期、音楽伝記映画の製作状況は沈滞する)。

 言うなればこれは、映画監督の作家性と、その題材となったバンドのファンが抱え続ける純な心情との「悲しいすれ違い」と呼ぶべき現象だった。しかし、これが結構多い。

 その映画の「題材となったアーティスト、盤、あるいはその音楽ジャンル特有の」音楽的快感を観客が堪能できなかったり、ファン心理が尊重されていないような作品は失敗する。「観客不在」となるからだ。要するに伝記映画のみならず、音楽映画を撮るならば、題材となった「音楽そのもの」と「そのファン」を、決してナメてはいけない、ということ。しっぺ返しは、かならずある。

 おわかりいただけただろうか? たかが2要素、されど2要素。これらを満たすことは、簡単なようでいて難しい。しかし他の映画ジャンルへと目を転じてみれば、まさに「お手本」となる成功例がある。それはサム・ライミ監督版の『スパイダーマン』第一作(02年)だ。同作のあざやかなる大成功がなければ、その後のMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)の快進撃は1ミリたりともなかっただろう。

サム・ライミも「同じ方程式」でスパイダーマンを救った

 なぜならば「このときまですべて」アメリカにおけるスパイダーマンの実写化作品は70年代のTVドラマ版など「ほどほど」の成功しかおさめていなかったからだ。エピソードが劇場作品ほどの尺にまとめられたVHSパッケージが、80年代、日本のヴィデオ・ショップの片隅にしんみり置かれていたことなど、ご記憶のかたもいるかもしれない。

 つまり、とくにヒットはしなかった。低予算という事情もあったのだろうが、最大のポイントは「サム・ライミのような」原作コミックのマニアを製作サイドにて重用しなかったから化けなかった、というのが定説だ。ゆえに「原作コミックの快感」を再現できなかったし、「原作ファンの心理」はもちろん十分に尊重できていなかった。

 要するに「素材を大切に」という点で、サム・ライミ以降のアメコミ映画の成功方程式同様の路線にあったのが『ボヘミアン・ラプソディ』だったわけだ。だから、こう言うこともできる。「成功した音楽伝記映画とアメコミ原作の実写版映画とは、その構造がとてもよく似ている」と(ちなみに『ジョーカー』と『ボヘミアン・ラプソディ』両作の主人公キャラクターの類似点に着目した僕の考察はこちらにある。よろしければ、ぜひ)。 

 音楽伝記映画、そしてアメコミ映画は「キャラクターの映画」にほかならない。ストーリー・ラインよりなにより、強烈なる主人公たちの「人物像」こそが、まず第一に観客を引き寄せる磁石となる。そしてスーパーヒーロー、ときにはスーパーヴィランもかくや、といった破格のキャラクターも「ロック界ならば」いくらでもいる。

 そんなキャラクターの造形は、深くなくともいい。ストーリーはありがちな書き割りでもいい、場合も多い。ただただキャラクターたちの「熱」と「輝き」を焼き付けること。その反映として「改変されていく現実」の状態を、アメコミ映画ならVFXで、音楽映画なら「音楽そのもの」のインパクトで、観客の情感に訴える。そして「感動」を呼ぶ!……これが、いま現在の映画界で最もホットな「売れる映画」の要諦にほかならない。

 この傾向は、言うなればSNS時代の今日ならではの現象なのだろう。SNSとは、どこまで行っても「キャラクターを持つ」個人が発信するものだからだ。また一方、20世紀の映像作家が数10年かかって蓄積できる程度の量の動画を、数日で容易に「誰でも」摂取できるようになった時代が現在でもある。ゆえに、付き合うのに時間がかかるストーリーよりも、「出会い頭のインパクト」だけでそれなりに納得させられるような「人物の個性」のほうがより目に留まりやすくなる。そんな状況が、観客の側の日常となって久しい。こうした時代相のなかで商業映画に求められる「第一の」特徴が、キャラクター主義とでも呼ぶべきものなのだ、と僕は見ている。

マーティン・スコセッシも失敗した…

 だから、と言うべきか。最近MCUを強く批判して、アメコミ映画にとみに冷淡なマーティン・スコセッシ監督は、16年、音楽もののTVドラマで大失敗をしている。70年代ニューヨークの音楽業界を舞台としたフィクション『VINYL』がそれだったのだが、あえなく1シーズンで打ち切りとなった。

 僕はスコセッシが撮る音楽ドキュメンタリーの多くを評価するし、彼が監督する映画作品ににじみ出る音楽趣味も嫌いではないが(「ギミー・シェルター」多すぎとは思うが)しかし、この『VINYL』はいただけなかった。ニューヨーク・ドールズの解釈を始め、当時のシーンの様子が、いやはや「ないでしょう」と……これもまた、監督の作家性が「音楽ファンが求めるもの」とすれ違ってしまった、と言える事例だった(ミック・ジャガーも製作総指揮に噛んでいただけに、なお痛い)。

 といった、ある意味「危ない橋」でもあった音楽伝記映画の歴史の上で、未曾有の大成功をおさめたのが『ボヘミアン・ラプソディ』だったのだが、しかし、同種の達成を果たした先例がなかったわけではない。さすがに成功規模はもっと小さいが、前述の2要素を満たした音楽伝記映画、その最初の例として挙げるべきなのが『グレン・ミラー物語』(54年)だ。時は下って『ラ・バンバ』(87年)なども近い。どちらも「キャラクター優先」のおとぎ話となっている点も『ボヘミアン・ラプソディ』と同じだ。『ボヘミアン・ラプソディ』の作劇上のモチーフがこの2作だった、と聞いたならば僕は信じる。

 最近の成功例では『ストレート・アウタ・コンプトン』(15年)も、じつは構造が近い。ギャングスタ・ラップの雄N.W.A という、まるで劇画のような存在の栄枯盛衰を、そのまま劇画調に描いたスマッシュ・ヒット作だった。ちなみにクイーンを、『ボヘミアン・ラプソディ』を漫画でたとえるなら――決まってる。70年代日本の少女漫画だ(ラミ・マレックはきわめて少女漫画的な俳優だと思う)。

ディラン「◎」、アレサ・フランクリン「○」、デヴィッド・ボウイ「▲」、そして意外な伏兵は……

 ではここで、今後の予想をしてみよう。公開予定、あるいは製作がアナウンスされた音楽伝記映画のなかで、現時点で最も期待を集めているのが、この稿冒頭で触れた「ディランもの」の一作だろう。60年代中期、つまり「エレクトリック突入」期のボブ・ディランというオイシイ時期の彼を(なんと)美青年のティモシー・シャラメが演じる、というものだ(じつは結構、顔立ちは似ている)。

 同作は監督がジェームズ・マンゴールドということで、カントリー/ロカビリー界の大スター、ジョニー・キャッシュの人生を描いて成功した『ウォーク・ザ・ライン』(05年)も思い起こされる(そういえば、キャッシュを演じたホアキン・フェニックスは、もちろん、いまをときめく『ジョーカー』の人でもある。たったひとりで、音楽スターとアメコミ・ヴィランの両方を演じて大成功してしまった!わけだ)。『ウォーク・ザ・ライン』は「2要素」をしっかり押さえながらも、米映画界に連綿と続く、骨太な実録人物伝もののタッチすら同時に漂う良作だった。

 おまけにディランと映画は相性がいい。ここでは詳しく触れないが、ドキュメンタリーからフィクション、本人出演作(そう、ペキンパーのあれだ)まで、じつは「ディランものの映画」には当たりが多い。そんなところからも、今後の音楽伝記映画ラッシュ、僕のイチオシは「ディラン×シャラメ」の、これだ。

 次点は「ソウルの女王」アレサ・フランクリンを描き、ジェニファー・ハドソンが主演する『Respect(原題)』と行くべきなのだが、これにはちょっと不安もある。モチーフ本人があまりにも偉人すぎる場合に起こりがちな制約、プレッシャーが製作陣になければいいのだが。あとTVドラマ・シリーズ『ジーニアス』版のアレサ物語と競作となっているところも、気になる。とくに人物伝の場合は、ドラマのほうに尺的な有利性があると考えられるからだ。

 残念ながら、デヴィッド・ボウイを描いた『Stardust(原題)』は、さすがによろしくないだろう。ボウイの息子のダンカン・ジョーンズ、映画監督でもある彼が、あからさまな不快感を公表し「協力しない」と宣言。だからボウイ・ナンバーが一切使用できず……といったところで、「肝心の音楽を欠いた人物伝映画」となることは、すでに決定ずみだからだ。05年の『ブライアン・ジョーンズ ストーンズから消えた男』(ザ・ローリング・ストーンズの曲を一切使えなかった)や、日本では昨年公開された『イングランド・イズ・マイン モリッシー,はじまりの物語』(英では17年に公開。ザ・スミスの曲が一切使えなかった)を思い起こさせる。

 このほか、バズ・ラーマン監督によるエルヴィス・プレスリーもの(トム・ハンクスがトム大佐をやる!)があり、マイケル・ジャクソンの人生を「スキャンダルも込みで」映画化する企画もある。エイミー・ワインハウスも、ボブ・マーリーも、キャロル・キングも、セリーヌ・ディオン、なぜかまだアラフォーのラッパーであるグッチ・メイン(早いって…)、マドンナ(いまさら?)、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ……まで、もろもろ企画進行中だそうだ。

 意外な伏兵というか、モノになったら面白いかも、と僕が個人的に期待するのが、カルチャー・クラブのフロントマン、ボーイ・ジョージを描く一作。なにより監督のサーシャ・ガバシを僕は買う。彼の出世作、カナダの実在の中年(になってしまった)メタル・バンドの再起の道を追ったドキュメンタリー『アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち』(09年)はユニークな秀作だった。ただあまりにも「よくできた」話だったので、僕は監督にインタヴューした際「シンプルな実録じゃなく、じつは脚本先行のリアリティ・ショウ的な手法で作ってますよね?」と訊いたところ、思いっきり「あらぬ話」で誤摩化されてしまった、のだが……まあでも、前述の「2要素」を見事に満たしていたことは間違いない。ボーイ・ジョージはもちろん存命中なので全面的に協力(製作総指揮)とのことなのだが、それが「悪いほう」に出なければ、大丈夫だろう。

 音楽家の本人存命中に伝記映画の企画が走ることは、よくある。03年ごろ、ボウイにも伝記映画の話題があった。なんでも本人の希望で「主演はジュード・ロウ」と決まってた、との噂も(二枚目すぎると思うのだが…)。ブロンディのデビー・ハリーキルスティン・ダンストが演じる、という話もあった。ハリー本人もこれを好感して「彼女も私と同じ『ジャージー・ガール(注・NYの隣の州であるニュージャージー出身との意味。東京都民に対する埼玉県民みたいな)』だからいいわね」なんて言っていた。しかしこの2つの企画は、実現にまで至らなかった。いまからでも、見てみたい気もするのだが。

 たとえば軍事マニアが「映画から」第二次世界大戦の基礎情報を得たりするように(そしてときに、その考証上の間違いを指摘したりするように)、ロック音楽家の人となりも「映画から」最初に知る場合が一番多い、なんて時代が始まったのかもしれない。

作家。小説執筆および米英のポップ/ロック音楽に連動する文化やライフスタイルを研究。近著に長篇小説『素浪人刑事 東京のふたつの城』、音楽書『教養としてのパンク・ロック』など。88年、ロック雑誌〈ロッキング・オン〉にてデビュー。93年、インディー・マガジン〈米国音楽〉を創刊。レコード・プロデュース作品も多数。2010年より、ビームスが発行する文芸誌〈インザシティ〉に参加。そのほかの著書に長篇小説『東京フールズゴールド』、『僕と魚のブルーズ 評伝フィッシュマンズ』、教養シリーズ『ロック名盤ベスト100』『名曲ベスト100』、『日本のロック名盤ベスト100』など。

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