追悼クインシー・ジョーンズ、米音楽界の最大巨星にして、日本のお茶の間も席巻した「すごさ」6つ
最大の巨星が世を去った
米ポピュラー音楽界の巨星、クインシー・ジョーンズが去る11月3日に死去した。享年91。1950年代から「ついこのあいだ」まで、彼は第一線で活躍し続けてきた。ジャズ・トランペッターにしてバンドリーダー、作曲家にして編曲家、そして音楽プロデューサーとして、傑出したキャリアを誇る。近いところでは、2022年のザ・ウィークエンドのアルバム『ドーンFM』にてフィーチャーされ、モノローグを提供していた(曲名「ア・テール・バイ・クインシー」)。
60年代にフランク・シナトラの代表曲のひとつをプロデュースした人物が、21世紀にそんなことをしているだけでも「すごい」のだが、もちろんみなさんご承知のとおり、マイケル・ジャクソンと組んでの80年代の大成功は、文字通り「ポップ音楽を永遠に変えた」と言っても過言ではない。そんな彼の足取りは――ありていに言って――とても「ひとりの人物」が成し遂げた業績とは思えない。音楽界の歴史に残るレベルのトップ・アーティストの、4人から5人のキャリアを合わせたぐらいは、余裕であったのではないか。
まさにそんな不世出の音楽的巨人の「すごさ」のポイントを、できるかぎり簡潔に以下にまとめてみた。あなたがより深く、多岐にわたってクインシー・ジョーンズの音楽に触れてみる際に、なにかの参考になったら幸いだ。
すごさ1:「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」をスウィングにした
邦題「私を月まで連れてって」としても知られるこのナンバー、ご存じフランク・シナトラのキャリア後期の大ヒット曲であり、いまなお映画やドラマでの使用例も多い、一大スタンダードだ。じつはこの曲、54年にバート・ハワードにより制作されたときは、ゆったりとスローな3/4拍子(つまりワルツ)だった。これがテンポアップして4/4の、いわゆる4ビートのスウィング・ナンバーになったのは「クインシー・ジョーンズのアレンジによる」もの。カウント・ベイシーとアルバムを制作していたジョーンズがこのヴァージョンを開発したところ、シナトラが気に入って、そしてベイシーと組んだ彼のアルバム『イット・マイト・アズ・ウェル・ビー・スウィング』(64年)に収録されることに。ここで歴史が生まれた。
すごさ2:マイケル・ジャクソンの才能を開花させた
ギネスブック認定「史上最も売れたアルバム(1億枚との推計もある)」となった『スリラー』(84年)を共同プロデュースしたのみならず、その前後のアルバムもクインシー・ジョーンズが手がけている。とくに「前」の一作、『オフ・ザ・ウォール』(79年)におけるジャクソンの進化はすさまじく、同作の達成が『スリラー』の呼び水となった。
それまでのマイケル・ジャクソンは、ジャクソン5における幼くしての成功を超えることができない、中途半端な位置付けの「スター」だった。アルバムも75年を最後に発表していなかった。そんな彼がエピックに移籍、心機一転して「人生をやり直そう」としたときに頼りにしたのが、出演した映画『ウィズ』(78年)にて音楽担当だったジョーンズだった。かくして、「初めて」ジャクソンの自作曲もフィーチャーし、超一流の音楽プロダクションによって仕上げられた『オフ・ザ・ウォール』は、彼を輝かんばかりの青年R&Bスターとして「蘇生」させた。そして次作にて、ジャクソンは「キング・オブ・ポップ」となる。ふたりの「J」の共同作業が、まさに文字通り「歴史を作った」。
すごさ3:映画音楽でも巨匠すぎ
クインシー・ジョーンズの受賞歴というと、なんと言ってもグラミー賞を28回も受賞するという桁外れの実績(歴代3位)なのだが、アカデミー賞も獲っている。受賞は一種の功労賞である「ジーン・ハーショルト友愛賞」を94年度に獲得したのみなのだが、最優秀オリジナル・スコア賞や最優秀主題歌賞ほか、ノミネートは多数。音楽を手がけた映画は30作以上に上るのだが、名作にして「名サウンドトラック」がこれまた多い。
最初に挙げるべきは『夜の大捜査線』(67年)だろう。人種差別が激しいミシシッピの田舎町で起きた殺人事件を捜査する、都会から来た黒人刑事(シドニー・ポワティエ)の奮闘を描いた同作はアカデミー作品賞を受賞。レイ・チャールズが歌ったゴスペル調のテーマ曲も伝説となった。そしてジョーンズはこの映画ではなく、同じ67年に公開の『冷血』(トルーマン・カポーティの小説の映画化)にて、初のアカデミー賞ノミネートを果たす。
そのほか、洒脱な『ミニミニ大作戦』(69年)、シネジャズ全開『ジョンとメリー』(69年)、リトル・リチャードにファンキー・チューンを歌わせた『バンクジャック』(71年)、そして『ゲッタウェイ』(72年)ではトゥーツ・シールマンスのハーモニカをフィチャーした「愛のテーマ」などが大いに評価される(ゴールデン・グローブ賞オリジナル・スコア賞ノミネート)。ちなみにスティーヴン・スピルバーグの『カラーパープル』(85年)では音楽のみならず、共同製作者として名を連ねている。
すごさ4:傑出しすぎのアレンジ能力
本人名義の音楽作品として日本で最も有名なのが、81年の「愛のコリーダ(Ai No Corrida)」だ。米ビルボードのシングル・チャートでは最高位28位、R&Bチャートでは10位まで上昇するヒット、日本でもディスコ時代に大いに流行った。オリコン洋楽チャートでは12週連続1位(年間1位)の大ヒットとなり、武道館公演2回を含む同年7月の日本ツアーを成功に導いたので、いまもご記憶の人も多いだろう。
ちなみにこのナンバーのタイトルは、もちろん日本の大島渚監督の映画『愛のコリーダ』(76年)からの引用だ。ソングライターは英キーボーディストのチャス・ジャンケルとケニー・ヤング。ジャンケルの80年のソロ・デビュー・アルバムに収録されている……のだが、こっちはとくにディスコではない。
ジャンケルというと、70年代後半のイギリスを燃え上がらせたパンク/ニューウェイヴ時代にイギリスの国民的ヒーローとなったシンガー、イアン・デューリーのバッキング・バンド「ブロックヘッズ」の一員だった。だからと言うべきか、彼のヴァージョンでは、いまにもデューリーが歌い始めそうな、ロンドンの下町感あふれるファンク調ロックとなっている。これを「整理&ブロウアップ」したのがつまりはジョーンズ版なのだが、曲構成やアレンジの基本的方向性は遠くないだけに、なにやら不可思議な「マジック」が起こったかのような、そんな仕上がりとなっているようにも。おそるべしQJアレンジ!
同じ「マジック」効果は、フォーク・ロック・バンドであるラヴィン・スプーンフル66年のヒット曲「サマー・イン・ザ・シティ」のクインシー・ジョーンズ版(73年)にも当てはまる。エレクトリック・ピアノを主旋律にしたインストゥルメンタルなのだが、この「むせかえるようなメロウ感」が絶賛を集め、まさに「サマー・クラシック」となる。オリジナルとはかなり感触が違うどころか、おもにクラブ界隈では「こっちのほうが」長く深く愛され続け、ヒップホップ曲などにおけるサンプリングは絶えない。QJがアレンジすれば、どの曲も「最高」になる!
すごさ5:日本のお茶の間は、基本的に「クインシー空間」
さらに、彼名義で近年最も有名なナンバーは「ソウル・ボサノヴァ」(作曲もジョーンズ)だろう。62年に発表されたこの曲は、なんと「20分で書き上げた」(!)そうなのだが、ローランド・カークがフルートを、直後に映画音楽家として成功するラロ・シフリンがピアノを弾いている。そしてこのナンバーは、97年の映画『オースティン・パワーズ』にて使用されたことで、国際的にリヴァイヴァル・ヒットした――ということになっているのだが、ここ日本でだけは少々事情が違った。なぜならば、映画を観ていてこの曲が流れてきた瞬間、日本人のほぼ全員が「東京モード学園だ!」と思ったからだ。同校の70年代から80年代のTVCMにおいて「ソウル・ボサノヴァ」がずっと使われ続けていて、それが刷り込まれてしまった日本人は多かった。
さらに『鬼警部アイアンサイド』問題もある。クインシー・ジョーンズは、TV番組の音楽はあまり手がけないのだが、あの名作『ルーツ』(77年)と並ぶ代表作といえば、67年から75年までアメリカで放送された刑事ドラマである本作だ。テーマ曲の「アイアンサイド」における、イントロからのブレイク(?)部分「パッパパッパ、パッパ~」というところ、日本のテレビ番組で、ジングル的とにかくもう、本当によく使われている。古くは『テレビ三面記事・ウィークエンダー』であり、新しくは『ダウンタウンDX』か(タランティーノも『キル・ビル』で使っていた)。少なくともこれを聞いて、最初に『鬼警部アイアンサイド』を思い浮かべる人は、日本にはもはやほとんどいないのではないか(ドラマは当時吹き替え版が放送されていたのだが)。
すごさ6:世紀の「名指揮者」なのだ
たとえば85年の「ウィ・アー・ザ・ワールド」。あのようにものすごい顔ぶれを前に指揮棒を振って、あのように絶妙な一曲に仕上げるのは、並大抵のことではない。しかし「クインシー・ジョーンズならば」それが、やれる。
彼のそうした、指揮者&バンドマスターとしての真価が発揮されたのが、マイルス・デイヴィスの遺作となったライヴ・アルバム『マイルス&クインシー・ライヴ・アット・モントルー』だった。「帝王」の異名で知られるジャズ界の大スター・トランペッターであるデイヴィスは、とにかく「旧作は振り返らない」「自分の古い音楽を演奏しない」人だった。そんな彼に、50年代にジャズ・ピアニストの巨星ギル・エヴァンスがアレンジした彼のナンバーを再演させ、自らのキャリアを再訪させたということで、多くのジャズ・ファンを驚かせた。なんでもジョーンズ宅にて二人がサイキック体験をしたところから話が転がったのだそうだが、いずれにせよ、クインシーの指揮によるオーケストラにバックアップされたデイヴィスは91年7月8日のモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに登壇。数年前に他界したエヴァンスへのトリビュートという意味も込めて、病を押して「古い音楽」を見事にプレイした。そしてこれが、3ヶ月後に他界するデイヴィスにとって、最後の録音となった。アルバムは93年に発売され、ビルボード・ジャズ・アルバム・チャートのトップに立った。
まだまだあるのだが、残りは以下のリンクなどを参考にしてほしい。まずは英BBCより「クインシー・ジョーンズの偉大さを証明する10曲」が発表されている。米ヴァラエティは「クインシー・ジョーンズの天才的な手腕が詰まった15曲」を、英ガーディアンは「クインシー・ジョーンズの偉大なプロデュース作品10選」を、それぞれ発表している。ネットフリックスでは、『クインシー』と題された18年作のドキュメンタリーもある。
あとBBCからは、クインシー・ジョーンズの貴重なインタヴュー・フッテージも公開されている。なんと、スイスではデヴィッド・ボウイが持っていたヨットに乗ったり、カンヌでパブロ・ピカソの隣に住んでいたこともあるのだという(!)。まさに最高峰の人物は、違う大陸の最高峰と、出会うべくして出会うのか……。
クインシー・ジョーンズが作った歴史の上に、僕らは住んでいる
ちなみにクインシー・ジョーンズは私生活も華麗で、数度の結婚と離婚を経て、7人の子供を得ている。女優ナスターシャ・キンスキーとのあいだに生まれたケニヤ・キンスキー・ジョーンズはモデルとして活躍している。また女優ペギー・リプトンとのあいだに生まれた二人はともに女優となっているのだが、次女のラシダ・ジョーンズが近年進境著しい。将来性のある新進女優への目利きには定評のあるソフィア・コッポラ監督の『オン・ザ・ロック』(20年)に主演、現代ニューヨークを代表するインディー・ロックの雄ヴァンパイア・ウィークエンドのエズラ・クーニグとのあいだに子供を授かっている。彼女が運転するクルマに父クインシーが同乗し、二人でマイケル・ジャクソンの歌をうたうという、まるで「カープール・カラオケ」みたいな微笑ましいフッテージもSNSに流れている。
なによりも我々の眼前には、1950年代よりずっと、偉大なるクインシー・ジョーンズが蒔き続けていた音楽的遺伝子が、いたるところにある。彼と仲間たちによって「変えられた」ポップ音楽の大きな流れのなかに、依然として僕らは住んでいる。ジョーンズの業績の真価、本当の「すごさ」を噛み締めることができるようになるのは、じつはこれからなのかもしれない。
宇宙の歴史からすると、あっけないほどの「ほんのひととき」だったのかもしれない。しかしクインシー・ジョーンズと、彼の音楽とともに過ごした時間を、我々が忘れることは決してない。本当にお疲れさまでした。安らかに――。