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追悼セルジオ・メンデス、ブラジル音楽界の巨匠が「ポピュラー」の世界で成し遂げた不世出の偉業とは?

2014年のセルジオ・メンデス、米フロリダ州はマイアミ・ビーチにて(写真:ロイター/アフロ)

世界中で「最もポピュラーな」ブラジル音楽の象徴が彼だった

巨匠の訃報が世界を駆け巡った。日本を含む世界中に無数のファンを持つ、ブラジル音楽界の巨匠、ピアニストにして作編曲家、音楽プロデューサー、バンドマスターのセルジオ・メンデスが9月5日に世を去ったことが報じられた。没した場所は、長年住んでいたロサンゼルスだったという。享年83。そう聞くと「まだ早い」と当然思うのだが、しかし同時に「えっ、まだそれぐらいのお歳だったのか」との驚きも、僕のなかにはある。

なぜならば、まさに文字どおり「はるかむかし」から、ポピュラー音楽の世界で「ブラジル音楽」の魅力を広めていた第一人者こそが、セルジオ・メンデスその人だったからだ。彼の功績を讃えるにあたり、この稿では、彼にしか成し遂げられなかった、ブラジル音楽が、すさまじい「ポピュラリティ」を獲得していった過程について見ていきたい。つまりメンデスの功績のうち「最も派手な」部分だ。

セルジオ・メンデスといえば、まず最初に「マシュ・ケ・ナダ」(66年)だ。いやもしかしたら、「ブラジル音楽といえば」この曲が最初に脳裏に浮かぶ人も世に多いのではないか。「ブラジルの至宝」のひとり、シンガーソングライターのジョルジュ・ベンのペンによるボサノヴァ・ナンバーがこの曲だ。彼のヴァージョンが同国では先に親しまれていたのだが(大ヒットした63年のデビュー・アルバムに収録)、しかし国際的にはセルジオ・メンデスと彼のバンド「ブラジル66」によるカヴァーが、とにかくよく知られている。

しっとりムードでグルーヴするベン版と比較すると、メンデス版は「派手」だった。リズムが強調され、コーラスと女性ヴォーカルが盛り立てるなかを、彼の饒舌なピアノが駆け抜けていく——このダンサブルな華やかさが、世界中の耳目を「ブラジル音楽」に引き寄せた。アメリカで制作された当曲は同国でヒットし、収録のアルバム(『ハーブ・アルパート・プレゼンツ・セルジオ・メンデス&ブラジル66』66年)も大ヒットした。このアルバム・ジャケットのヴィジュアル(上の動画をご参照ください)も、もはや文化遺産クラスだろう。

同作はセルジオ・メンデス&ブラジル66のデビュー・アルバムだったのだが、リリース元はA&Mレコードだった。60年代から70年代にかけて大きく成功していく同レーベルの黄金時代を、その先頭に立って盛り立てていくアーティストが彼らであることを満天下に知らしめた一枚だったと言える。そしてその「黄金時代」において、A&Mが得意としていたマーケットこそ「イージーリスニング」と呼ばれる領域だった。メンデス版の「マシュ・ケ・ナダ」は、ビルボードのイージーリスニング・チャートで4位まで上昇した。

以下はA&Mの「A」の人、人気トランペッターでありレーベル共同創設者であるハーブ・アルパートとセルジオ・メンデスの、67年の姿だ。演奏はもちろん、冒頭にはコント(?)的なやりとりまである。

ロックの時代に、イージーリスニングの巨匠となった

イージーリスニング(easy listening)とは、大雑把に言うとエレヴェーターのなかや百貨店の店内で、あまり大きくない音量で鳴り続ける「誰にも嫌われない」ような音楽、心地よくも「耳にやさしい」音楽を総称するものだ。いわゆるポピュラー音楽のなかでも「最も広大な領域」にて、まるで空気のように浸透していくものこそがイージーリスニングで、50年代、LPレコードやステレオ装置の普及と歩調を合わせるかのようにして、世に広まっていった。ちょうど「まったくイージーではない」ロックンロール音楽が若者層に爆発的に受けて、ポピュラーのなかに「ポップ」音楽という新しい領地をばりばり獲得していったのと、ほとんど同時期、同時進行の出来事だった。

たとえばロックンロールが、若者が集う地下室みたいなクラブや、近隣住民が警察に通報したくなるような荒れ狂ったホーム・パーティーにお似合いの音楽だとしたら、イージーリスニングは「落ち着いた大人の、小粋なカクテル・パーティー」みたいな印象だろうか。家具調度はミッドセンチュリー調で揃え、男女の装いはドラマ『マッドメン』みたいな感じで、そこで流れるのがセルジオ・メンデス&ブラジル66だったとしたら——これほどぴったりくるものはない。60年代中期、そんな領域にて「ブラジル音楽って、いいよね」なんていう世評を確立した大立者こそが彼だったわけだ。

もっとも「最初に」ブラジル音楽の魅力をアメリカン・マーケットに認めさせたのは、メンデスではない。アストラッド・ジルベルトが歌う「イパネマの娘」(64年)のほうが早かった。ボサノヴァ歌手のジョアン・ジルベルトと米サックス奏者のスタン・ゲッツによる名盤『ゲッツ/ジルベルト』に収録の同曲は大ヒット。これで初めてボサノヴァを知った人は、世に多かった。そして同作でピアノを弾いているアントニオ・カルロス・ジョビン——「ボサノヴァの生みの親」のひとりとされる――や、ジョアン・ジルベルトの大きな影響を受けたのが、若き日のメンデスだった。

ジャズ・ピアニストだったメンデスがボサノヴァ化していったのはこの流れからなのだが、そこに「もう一枚」あるのが彼らしく、「イパネマの娘」が切り開いていった「ポピュラーへの道」を、さらに大きく、できるかぎり大きく開拓していったのが「マシュ・ケ・ナダ」以降のメンデスだった。ここにおいて、ブラジルの中流層から生まれたボサノヴァという新しい音楽が、ジャズやエキゾチック音楽という範疇をはるかに超える「ポピュラリティ」を獲得するに至る道が、生まれてくることになった。この功績は、計り知れない。

だからセルジオ・メンデスの訃報を伝える各種記事のなかで、日本では「ボサノヴァの代表的ミュージシャン」(NHK)などという表現がいくつかあったのだが、これは不正確だ。ボサノヴァはもちろん彼の重要な一部には違いないのだが、それを「広大無辺なるポピュラー世界」へと解き放っていった才人こそが、セルジオ・メンデスなのだから(それに、正しくボサノヴァ界を代表すべきアーティストは、彼のほかにいっぱいいる)。メンデスの位置付けとは、ある部分ポピュラー音楽界の巨匠、ポール・モーリアなんかにも近いものなのだ。「ブラジル音楽のエッセンスを引き継ぎながら」そんな位置にまで達したことが、まさに「前人未到」の偉業だったのだ。

ビートルズ・ナンバーの「ブラジル化」が大受けした

そうしたメンデスの「ポピュラー化剛腕」が炸裂するのは(具体的には、プロデューサー/アレンジャー/バンドマスターとしての手腕が発揮されるのは)やはりヒット曲をカヴァーしたときなどに、とくにいい結果が出る。たとえば「ブラジル66によるビートルズ・カヴァー」これが絶品なのだ。前述のデビュー作には、「ワン・ノート・サンバ」「おいしい水」などのブラジリアン・ヒットに並んで、ビートルズの「デイ・トリッパー」カヴァーが収録されている。もちろんこれは大変に受けて、だからシリーズ化、『フール・オン・ザ・ヒル』と題された68年のアルバムには、もちろん同曲のカヴァーが収録されている。

ここで面白いと僕が思うのは、ブラジル66のカヴァーとビートルズのオリジナルの「どっちがいいか」なんて比較が、事実上不可能である点だ。なんというか「住む世界」が、あらかじめまったく違いすぎるのだ。たとえばビートルズ的世界「内」の観点で見たならば、問答無用でビートルズのほうがよくって当たり前。しかし「ポピュラー音楽の世界」で見たならば——たとえばエレヴェーターに乗っていて、ビートルズとブラジル66版の「フール・オン・ザ・ヒル」がそれぞれ流れてきたら、もしかしたら後者のほうが勝つ場合がある、かもしれない。「気にしなくてもいい心地よさ」という点ならば、まず間違いなく、セルジオ・メンデス&ブラジル66の圧勝だろう。言い換えるとそれは、ビートルズがもし「マシュ・ケ・ナダ」「イパネマの娘」をカヴァーしたとしたら――もちろん素晴らしいものになった可能性は高いが――それはしかし、どう見ても「ビートルズの音楽」にしかならなかった、かもしれない。つまりその「逆」の場所にこそ、偉大なるセルジオ・メンデス大陸があるのだ。

日本だって縁が深い。浅野ゆう子もセルメン曲を歌った

こうしたセルジオ・メンデスの「ポピュラー志向」は、70年代以降も折に触れて発揮されていく。71年より「ブラジル77」名義のグループを率いた彼は、ときに軟派(=ものすごくポピュラー)に振れたアルバムを作ったならば、次にはブラジリアン・ルーツに多少回帰するなどして、活動を続けていく。日本人として忘れてはならないのが、1970年の大阪万博における演奏なのだが、意外に忘れられがちなのが「ブラジル88」名義時代のひと仕事、カネボウ化粧品1979年夏のキャンペーン・ソング「サマーチャンピオン」だ(ちなみに英語版タイトルは「サマー・ドリーム」となっている)。ソングライティングもメンデスとマイケル・センベロ(!)が担当した同ナンバーには、このときのキャンペーン・モデルである浅野ゆう子が歌っているヴァージョンもある。

ラッパーも魅了した

と、そんなセルジオ・メンデスの華やかなキャリアにおいて、近年最も大きくヒットした作品が、2006年の『タイムレス』だった。プロデューサーは、当時大ヒットを連発していたヒップホップ・グループ、ブラック・アイド・ピーズのリーダー、ウィル・アイ・アム。彼からの熱烈なオファーにメンデスが応える形でコラボレーションが実現、10年振りのオリジナル・アルバム発売となったのだが、これが大ヒット。ヒップホップ/ラップの手法を大きく取り入れ、ゲストも多数登場、そして「これぞ定番」の代表曲をリメイクすることで、見事なる大復活を遂げた。ブラック・アイド・ピーズをフィーチャーした「マシュ・ケ・ナダ」が、世界各国でヒットした。このヴァージョンで同曲を初めて知ったような若い世代が、多く同アルバムに手を伸ばしたという。

ポップ文化の輝くアイコンに

おそらくはこの成功によって、何度目かのセルメン・ブームが世界各国のクリエイター界に訪れたと僕は見る。ひとつの例が、米FXネットワークで放送されたドラマ『レギオン』(2017年〜19年)だ。マーベル・ヒーローのXメン系統の世界観で展開される同ストーリーは、統合失調症の超能力者が主人公という攻めた内容だったのだが、重要キャラクターである「オリバー・バード」の造形が、僕の目にはどう見ても「ブラジル77」時代のセルジオ・メンデスを下敷きにしているようにしか思えなかった。ジェマイン・クレメント演じる同キャラクターがラップ・バトル(?)する模様は以下の動画内にある。これもまた「ポップ文化内における」セルジオ・メンデスの比類なき影響力を物語るものではないか。

かくいう僕も、自作小説内にセルジオ・メンデスに似せたキャラクターを出したことがある。初めて書いた長篇小説『東京フールズゴールド』(2013年、河出書房新社)に登場させたウーゴ・キタムラと名乗る職業犯罪者がそれで、主人公に「こんな七○年代のセルジオ・メンデスみたいな顔した奴が、日系ペルー人のわけはない」なんて言わせている。

「銃口がその場にいる奴ら全員をなめる。ばらばらと投げ捨てられる携帯電話。それらの携帯を拾うでもなく、拳銃を振りながら、ウーゴはゆっくりとトヨタのステーション・ワゴンへと進んでいく。オォー、アリアー、ライオー――と俺の頭のなかで「マシュ・ケ・ナダ」が流れ始める」

(『東京フールズゴールド』より)

たった一度だけ、僕はセルジオ・メンデスに会ったことがある

『タイムレス』の2年後にリリースされたアルバム『エンカント(邦題『モーニング・イン・リオ』)』も、同じ路線を引き継いだものだった。なおかつ、すこしばかり「ルーツ」方面に舵を切ったものであり、こちらも好評をもって世に受け入れられた。

この時期、じつは僕は、セルジオ・メンデスにインタヴューしている。もちろん初めての対面だった。女性ファッション誌『エル・ジャポン』におけるブラジル特集のうち、音楽ページに僕が関わることになり、そのなかの一部分としての扱いだったので、あまり多く書くことはできなかったのだが、それでも僕は(いまでも思い出すのだが)かなり、舞い上がっていた。おおおれはあの、セルメンの現物に会ってしまうのだ!などと。

そこで僕は、普段——というか、人生この前にもあとにも、一度も――やったことがない行為を、やった。「取材したアーティストと並んで、記念撮影をする」という、なんと言うかプロとしてあるまじき、どうにも恥ずかしいおこないだったのだが……しかし、どうしてもやりたかったのだ。あの「セルメン・スマイル」(と僕が呼ぶ)ニカっと歯を見せて笑う、いつも変わらないあのご尊顔を眼前にしてしまうと……以下にあるのが、そのときの恥写真だ。どこかの予備校生みたいな奴のほうはおいといて、08年の御大のお姿をご覧いただきたい。彼が定宿にしていた、ホテル西洋銀座にて撮影したものだ。

銀座にて、2008年のセルジオ・メンデスと筆者 撮影:堀口麻由美
銀座にて、2008年のセルジオ・メンデスと筆者 撮影:堀口麻由美

このときの短いインタヴューで記憶に残っているのが、彼はウィル・アイ・アムのことを当初知らなかった、ということ。しかし娘が「絶対にいっしょに仕事したほうがいい」と勧めるので、その気になった、という。そのほか、原題の「エンカント(encanto) 」についても訊いた。「エンカント」とは、ポルトガル語で「魅力」や「魅惑」を意味する言葉だ。セルジオ・メンデスは、こんなふうに答えてくれた。

「ブラジル音楽の美しさを描写するのに、ぴったりな言葉だと思ったんだ。ブラジル音楽には、本当に多彩で美しいリズムやメロディがある。美女、偉大なサッカー、そして『音楽』。この三つが、ブラジルのナショナル・トレジャー(国宝)なんだよ」

そして、こうも付け加えてくれた(たぶん日本盤タイトルを意識して、リップ・サーヴィスしてくれたのだろう)。

「リオデジャネイロの朝は、最高なんだ。本当に、すごく美しいんだよ」

セルジオ・メンデスという稀有なる音楽家とは、言うなればこんな存在だったのかもしれない。我々が知るポピュラー文化、その大半は、18世紀から19世紀のヨーロッパや、20世紀前半までのアメリカにて形作られ、整備されてきたものだ。時折そこに「異文化」からの衝撃が走る、ことがある。自文化を背負ったヒーローたる者が、「ポピュラーな」世界へと、まるで殴り込むかのようにして闖入するときがある。そんなとき、衝撃を受けた側が、つまりジャンルそのものが変質してしまうことも、ある。たとえばアクション映画におけるブルース・リーロックに端を発するポップ音楽におけるボブ・マーリー……もしかしたらセルジオ・メンデスとは、それらの偉人にも匹敵する巨大なる功績を、ポピュラー音楽界に残したのかもしれない。もちろん「ブラジル音楽を背負って」

ブラジル音楽が、こうしていつも「ごく普通」に、我々の意識のなかに存在し、しかも「特別にいいもの」だとして人々に愛され続けているその出発点には、あの60年代の、すさまじく見事なる「ブラジル66」の大冒険があったのだ。そこからなんと、58年もの長きにわたって、セルジオ・メンデスの栄光は、彼の音楽は、ただの一度も廃れることがなかった。そんな気配すら、なかった。だからこれからもきっと、未来においてもずっと変わらずに愛され続けることは間違いない。

巨匠セルジオ・メンデス、安らかに——。

作家。小説執筆および米英のポップ/ロック音楽に連動する文化やライフスタイルを研究。近著に長篇小説『素浪人刑事 東京のふたつの城』、音楽書『教養としてのパンク・ロック』など。88年、ロック雑誌〈ロッキング・オン〉にてデビュー。93年、インディー・マガジン〈米国音楽〉を創刊。レコード・プロデュース作品も多数。2010年より、ビームスが発行する文芸誌〈インザシティ〉に参加。そのほかの著書に長篇小説『東京フールズゴールド』、『僕と魚のブルーズ 評伝フィッシュマンズ』、教養シリーズ『ロック名盤ベスト100』『名曲ベスト100』、『日本のロック名盤ベスト100』など。

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