デジタル化の過程でそぎ落とされた無数のみずみずしい情報がある
ネット社会がはらむある種の危うさについては、かなり前からいわれてきたことであるが、今回の兵庫県知事選におけるSNS上の情報の錯綜、混乱は、もはや社会の基本的なインフラになっているSNSの危うさを改めてわれわれに気づかせた。
インターネットが大ブレイクしてから、まだ3~40年ほどしか経っていない。ヒトの数倍早く成長する犬に喩えて、「ドッグイヤー」という言葉を使って情報技術の進化の速さが語られることがあるが、それでいえばこの3~40年は、かつての人類の歴史の2~300年の時間の流れに匹敵する。
道徳や倫理をはじめ、慣習や法などの社会の基本的なルールは、人びとの規範意識に支えられてこそその妥当性を獲得するのであるが、ネットの歴史の浅さからそれらが熟成されず、新しい形のトラブルも生じている。ネット上のフェイクニュースや名誉毀損、誹謗中傷などはその最たるものである。
ネットでの発言は手軽だから、頭に浮かんだことがストレートに発信されやすい。しかも、基本的に文字だけのコミュニケーションだから、表現の稚拙さや、配慮を欠いた言葉遣いから、容易に誤解が生じやすい。リアルな世界の会話では、表情や身振り、声の抑揚などに言葉を絡めて心を相手に送るのだが、文字情報だけが共有されていくと、人びとの間によほど強い信頼関係がない限りそれは意図せぬ深刻な響きを持って拡散されていく。
ネットを利用していると、情報が情報を呼び、すべての情報が自分の回りに配置され、あたかも自分が世界の中心に位置しているかのような感覚にとらわれることがある。流れてきた情報に、自分が慣れ親しんできた表現とのずれや違和感のある言葉づかいなどがあれば容易に誤解が生じ、読み手がときには正義感から勢いにまかせて反応し、その結果、冷静さを失った感情がエスカレートしてしまう。これが、「炎上」(フレーミング)と呼ばれているネット空間に特有な現象である。
炎上の過程では言葉が次第に汚れていき、同調できない人びとに対する人格攻撃が起きやすく、憎悪がいっそう深まっていく。深刻なのは、そのネット空間での憎悪が現実空間にまで引きずられ、社会の分断を深める危険性があることである。
インターネットは、人の意識を変革し、社会を強烈に揺さぶる革新的テクノロジーである。人の意識や制度的な枠組みの構築が遅れがちだからといって、加速度のついたこの情報化の流れを収めることはできない。
しかし、その勢いに飲み込まれないために、忘れてはならないことがある。
実は、われわれが人間としての存在の根を張る現実空間は、匂いや味、肌触りなど、コンピュータによるデジタル化を頑固に拒み続けている無数のみずみずしい情報で満ち溢れている。情報のデジタル化とは、デジタル化できないこれらの情報をすべてそぎ落としてしまい、その部分を巧妙にごまかす技術でもある。
たとえば液晶画面はますます美しくなっているが、そこに綺麗な花が映っていても、それは液晶の輝きにすぎず、当然のことながら花の香りも花びらのはかなさも伝わってこない。美味しそうな料理の映像からも、匂いや味、もちろん熱も伝わってこない。デジタル化の技術は、伝えられない情報をますます巧妙にごまかし、あたかもそこに本物が存在するかのように伝えている。
ネット空間に散りばめられた情報は、世界のごく一部の、しかもかなり偏った情報なのである。
どんなに社会の情報化が進んでも、手で直接さわるもの、舌で味わうもの、肌で感じるものを大切にしたいと思う。重要なのは、現実あるいは本物がネットの世界でどのように変形されていくのかをつねに考えることであり、大人は子どもたちにこのことを教えていかなければならないと思う。
かつて物質的貧しさが犯罪原因となった時代もあったが、今や人間関係の貧しさが重大な犯罪原因となっている。しかし、その根底には、情報化社会という情報過多の時代にあって、人間としての行動判断の基礎となる情報そのものの貧しさがあるように思われる。(了)