「光る君へ」安倍晴明がユースケ・サンタマリアにふさわしかった理由 晴明は”光る君”とは誰なのかも示唆
第30回から第32回までの3話はひじょうに重要だった
まひろ(吉高由里子)がついに「源氏物語」を書き始める。
第30回「つながる言の葉」(演出:中島由貴)では、まひろ(吉高由里子)が夫・宣孝(佐々木蔵之介)を亡くして3年、干ばつに襲われている京都のもようからはじまった。
一条天皇(塩野瑛久)自ら雨乞いしても効かず、道長(柄本佑)は年老いて引退していた安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)に雨乞いを頼む。自分の寿命を10年分と引き換えに。これってフラグだろうか? 道長は自分が何年生きると思っているのか。悪い見方をすれば慢心? だが、あとで彼が語る言葉で、彼が利他的な人なのがわかる仕組みになっている。
安倍晴明にユースケ・サンタマリアがふさわしかったわけ
安倍晴明を演じるユースケの呪文は、音楽をやっている人かつフロントマンだからか、言葉を音やリズムに適切に乗せて伝える力に抜群の説得力があり、効き目がある気がするのだ。芸能と祈りは本来とても近いところにあるもので、それをユースケが体現して見せた気がする。
そして、見事に雨が降る。晴明はこれで亡くなったのかと思わせて、彼には最後の仕事が残っている。それは第32回。
その頃、清少納言(ファーストサマーウイカ)の書いた「枕草子」を一条天皇が好んで読み、定子(高畑充希)を思い出す日々。だが、和泉式部――あかね(泉里香)は「枕草子」はおもしろくないと言う。
あかねはまひろの書いた「カササギ語り」のほうがおもしろいと評価する。カササギが語る物語集で、四条宮の勉強会ですこぶる評判がよい。その一作に、男女が逆転する物語があった。男が小柄で女ががたいが大きく、じつは男になりたいと思っていた女と女になりたいと思っていた男の物語であった。これはおそらく大石静が平安末期に登場する「とりかへばや物語」に想を得て書いたものであろう。
作者不明の「とりかへばや物語」が紫式部の初期作品であったかもしれないとか、あるいはその後、似たような作品が生まれたのかもしれないとか、いろいろ妄想の膨らどころのある創作の妙である。これなら史実じゃないとは言えない。作者がわからないのだから。しかもこの「カササギ語り」は賢子が燃やしてしまいあとに残らなかったという物語になっている。作者の筆のノリの良さを感じる。まひろが作家として目覚めていくのと平行して、大石静にもギアがぐっと上がってきたような。
「カササギ物語」の評判が「源氏物語」誕生につながる。
「枕草子」に夢中で定子が忘れられない一条天皇が彰子(見上愛)を見向きもしないことを心配した道長は、まひろの評判を聞いて、物語を書いてほしいと頼みこむ。
政治と娘の難問に悩む道長に「いずれ必ずや光は差します」と予言するのは晴明である。「光」と聞いて頭に浮かんだ人が「光」だと言うのだ(そのとき道長は「すべてがうまくまわれば私などどうでもいい」と利他的なことを言う)。
「光」と聞いて道長がひらめいた人、それは――まひろだった。
F4の鳥貴族会議(現代的な劇伴で焼き鳥を食べながら居酒屋語りのようなものをしている)、「枕草子」が高評価で、藤原斉信(金田哲)が清少納言を手放さなければよかったと惜しむとき、ぴくりと反応する道長がおもしろかった。まだ道長はまひろを手放していない。まだ間に合う。
まひろ、ついに覚醒。「いただきました!」(「SPEC」より)と言いそうなシーン
第31回「月の下で」(演出:中島由貴)では道長がまひろを訪ね、中宮様のために新しい物語を書いてほしいと頼む。
帝に無視され寂しそうな中宮を慰めたいという親心に、まひろはきっと複雑な気持ちであっただろう。なぜなら賢子も道長の子だから。彼がもし真実を知ったら賢子にもどれだけの親心を見せるであろうか。あとで明子(瀧内公美)が自分の血筋の良さをアピールする場面があり、血筋がすべてじゃないと道長が返すのもなんだか皮肉めいている。
まひろは物語を書くために、リサーチをはじめる。
和泉式部にもう一度、「枕草子」の感想を求めると、「なまめかしさがない」「気が効いているが人肌のぬくもりがない」「だから胸に食い込んでこないのよ」と批評。これはきっと大石静の書くものにも通じているだろう。大石さんは再放送中の朝ドラ「オードリー」(00年度後期)を見ても、なまめかしく人肌のぬくもりがありまくる。しかも気も効いている。長らく一線で活躍し続けるわけも納得である。
まひろは次に惟規(高杉真宙)に、「私らしさってなに?」と聞くと、「根が暗くてうっとおしい」とばっさり。
「人と話すとわかる」ことがあるというまひろは和泉式部や弟と話すことで、心と脳がじょじょに動き出していく。ついに書くことを決心、道長に物語を書くのにふさわしい紙をねだる。すると越前の美しい紙が大量に用意された。
「俺の願いをはじめて聞いてくれた」と嬉しそうな道長。たしかに、これまで何を頼んでもNOであったっけ。
いとの夫は道長が通ってくるまひろの家を「すごいなこの家」と感心し、いと(信川清順)は「すごいのよ」と自慢気。長らくいいこともなかったまひろの周辺環境に光が差している。
やがて書き上がったのは、明るい物語だった。それでいいという道長の目は虚ろでなにかが違う気がするまひろ。追及すると道長は簡単に実は帝に献上したいと明かす。長年の積み重ねで偽りを言えるようになった道長だったが、目をコントロールするまでにはなっていなかったし、嘘をつき通すことのできない正直者であった。
まひろにだけは嘘がつけないのかもしれないが。
帝のことを道長からリサーチして、帝の生身の姿を聞き出す。話を聞いているときのまひろの目はいきいきと輝き、定まっている。
帝といっても「人」で悩み苦しんでいて、でも表に出せずにいることを知るまひろ。人はみな、複雑なものとは亡き夫・宣孝からまひろは聞いて学んでいた。
「女も人ですのよ」「人とは何なのでございましょうか」とまひろの認識と問いが彼女の書くものになっていくのだろう。
夜になり、月が出る。
「人はなぜ月を見上げるのでしょう」
まひろと道長はついに肩を並べて同じ月を見た。
いや、離れていてもふたりはいつも同じ月を見ていたのだ。
「誰かが、今……俺が見ている月を、一緒に見ていると願いながら、俺は月を見上げてきた」としみじみする道長。
「おかしきことこそめでたけれでございます」と直秀(毎熊克哉)のことを思い出すまひろ。思えば、直秀の死から、ふたりはいい国をつくろうと思い始めたのだ。
道長はまひろにさらに近づくも、ためらいを見せ、帰っていく。彼女に触れることをしない。前だったら体を求めてきたのに。
吉高由里子はインタビューで、ふたりの関係は、物理的に近くなったが心の距離は遠くなった気がするというようなことを言っていた。やっぱり人とは複雑なものだ。
ついに書き出すまひろ
家をうろうろしたすえ、瞳が定まり、ぴかーん! 紙が舞う(ここで特殊能力を持った主人公が事件を解決する人気ドラマ「SPEC」の「いただきました」シーンを思い出す視聴者も少なくなかった。主人公が事件に関する要素を半紙に書き、その紙を花吹雪のようにちぎって撒き散らすと頭が整理され事件の真相に気づくという表現)。
紙はこれまで彼女が見聞きした様々な人の物語の断片の象徴であろう。そこに「なまめかしさ」「人肌のぬくもり」「根が暗くてうっとおしい」「気が効いている」等の要素も盛り込まれ、究極のエンターテインメントの序章を書きだすのである。
だが、道長の反応は「これは……」とテンション低いものだった。
「かえって帝のご機嫌を損ねるのでは」と困惑があった。
そこへ賢子がやってきて、年齢を聞く道長。6年前のことを思いつきはしないかどきどきするまひろの心を知ってか知らでか、道長は賢子を膝に乗せ頭を撫でる。まひろの複雑な表情。
それはそうと、まひろは書き始めた物語の書き直しに余念がない。
なぜなら「物語は生きておりますゆえ」。一度提出しても何度も何度も書き直したい。その気持ち、わかる!と共感する書くことを生業とした人たちは多かったであろう。
書き続けるまひろにかかる女性ヴォーカル曲がただただ美しい。
誰がために書く 自分のため
第32回「誰がために書く」(演出:黛りんたろう)のサブタイトルはまさにまひろの思いである。
一条天皇に渡したものの、読む気配がない。だが、たとえ読まれなくてもまひろは落胆しない。「もはやそれはどうでもよくなった」と言うときのまひろはものすごく自信に満ちた顔になっている。いま、自分の書きたいものを書きたい衝動を抑えることができない。無心に書き続けるまひろの脇に座り、道長は最初の読者となる。
「おれが惚れた女はこういう女だったのか」と今更、再認識して驚きを隠せない道長。たぶん、物語のなかにうごめく、まひろのものすごいパワーや細かい観察眼などに心打たれているのだろう。
廃邸や石山寺の背徳感満載のロマンティックな逢瀬もすてきではあるが、少し距離をとって、まひろが執筆し、道長は読んでいるような距離感は、修羅場を乗り越えて違うレベルに達した関係のようで清々しい。ソウルメイトとはこういうことなのかもしれない。
帝は「枕草子」以外興味がなかったのかと思ったら、「源氏物語」を読んで、作者に興味を持ちはじめる。
「あれは朕へのあてつけか」と冗談を言いながら、「書き手の博学ぶりは無双」と絶賛し、続きが読みたいと希望する。
道長はよっしゃとばかり、まひろに中宮様の女房にならぬかと勧める。
「おとりでございますか」と承知のうえで、藤壺にあがる決意をまひろはする。藤壺にはまた女たちの物語が渦巻いていそうで、たぶんそれも物語の糧になるだろう。
その頃、晴明が危篤に。急ぎ訪れた道長に「わたしは今宵死にまする」と淡々と宣言。
「ようやく光を手にいれた」と道長の状況を読み、「光が強ければ闇も濃くなります」と警告する。
光とはまひろのことにほかならない。ここで、「光る君へ」の光る君は光源氏でありそのモデルは誰なのかと思って見てきたものが、道長にとっての「光」=まひろであったのかもしれないと合点がいく。
「呪詛も祈祷も人の心のありよう。
私が何もしなくても人の心が勝手に震える」
という晴明の言葉もまた、物語論のようである。
「呪詛も祈祷も人の心のありよう」はまさにそうで、晴明が「光」と言ったとき、道長は勝手にまひろを想像し、彼女を頼った。それは占いというよりは、晴明は道長の心を整理して行動を促しただけである。何もしないわけではなく、人の心が震えるようなほんの少しのきっかけを作るのが、呪詛や祈りや物語や音楽なのではないか。
安倍晴明が「物語」の心を伝える存在になるとはまさか思っていなかった。どうしても陰陽師というとトリッキーな部分を担うものだけれど、人間の心を最もわかっている存在として描かれた。
トークバラエティ番組「土スタ」にユースケ・サンタマリアが出演した際、最初はテンション高めの演技を求められたが、そうではないプランを提案したというようなことを語っていた。この物語の安倍晴明にふさわしい選択だったと感じる。
「あべのせいめい」ではなく「あべのはるあきら」という、これまであまり使用されていない読み方にしたことで、手の届かない超魔力のある人物とは違った、人間に近い人物像が魅力的に描き出された気がする。
このとき、彰子の心が動いた?
晴明の最期はものすごく美しい星空と皆既月食に包まれていた。ほんとうに当時の星の位置が再現されていたらしい。
この皆既月食の晩、さらに人の心が大きく震える。
一条天皇が「源氏物語」を読みふけっていたら、火事が起こる。彼を心配して避難せずにいた彰子の手を引いて一条天皇、走る。
「あ!」と転ぶ彰子、「大事ないか」と支える一条天皇。
このとき、彰子の心が動いた、ように見える。
翌日は快晴。でも火事によって、八咫鏡がなくなり、これはたたりだと東宮が色めき立つ。帝の御代は長くは続くまいと。放火疑惑も浮かび、宮中には陰謀の渦が。
そんななかで、まひろは雪の降る年の暮れに、藤壺にあがる。
「わが家の誇りである」
「おまえが女子(おなご)であってよかった」と父・為時(岸谷五朗)に認められ、まひろは瞳を潤ませる。
いままでずっと、おまえが男であったらと父に言われ、女は勉強しすぎないほうがいい(勉強した成果を発揮する場が少ない)と、なんとなく存在を否定されてきたようなまひろが、ついに存在を認められたのだ。女性・男性と区別してはいけない、皆、平等であるという時代、女性らしさ、男性らしさという区分は好ましくないとされる。が、ここではあえて「女子(おなご)でよかった」とまひろが女であることを認めることに感動を覚える。この世界には女でなければできないこともあるのだとおもう。「女も人でありますのよ」とまひろが言うように、女も「人」であることを描き出すのが「源氏物語」なのだろう。
大河ドラマ「光る君へ」(NHK)
【総合】日曜 午後8時00分 / 再放送 翌週土曜 午後1時05分【BS・BSP4K】日曜 午後6時00分 【BSP4K】日曜 午後0時15分
【作】大石静
【音楽】冬野ユミ
【語り】伊東敏恵アナウンサー
【主演】吉高由里子
【スタッフ】
制作統括:内田ゆき、松園武大
プロデューサー:大越大士、高橋優香子
広報プロデューサー:川口俊介
演出:中島由貴、佐々木善春、中泉慧、黛りんたろう ほか