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徳川家康は、大坂の陣で豊臣家を滅亡に追い込もうと考えていたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、大坂冬の陣が開戦し、豊臣方と徳川方は死力を尽くして戦っていた。ところで、この戦いを通して、徳川家康は豊臣家を滅亡に追い込もうと考えていたのだろうか。その点について、詳しく考えてみよう。

 慶長5年(1600)9月に関ヶ原合戦が勃発し、東軍を率いた徳川家康は石田三成らが率いる西軍に勝利した。この戦いの勝利により、家康に運が傾いたのは事実である。

 注意すべきは、豊臣秀頼が家康に敗北したわけではないことだ。戦後処理は五大老の筆頭だった家康が秀頼の代わりに行っただけで、豊臣政権が消滅したわけではない。

 流れが変わったのが、慶長8年(1603)に家康が征夷大将軍に就任したことである。それまで、家康は豊臣政権を支える立場にあったが、武家の棟梁として江戸幕府を開幕した。

 事実上、この時点で両者の立場は逆転したといえよう。その2年後、家康は子の秀忠に征夷大将軍の職を譲った。その結果、徳川家が征夷大将軍を世襲することが決定的となり、豊臣家に大打撃を与えたのである。

 とはいえ、秀頼には関白に就任するという噂が流れていた。それは、当時の史料に書かれているので事実ではあるが、結局は実現しなかった。そのようなこともあり、秀頼には家康に対抗する術がなくなった。

 家康は孫娘の千姫を秀頼に嫁がせることで、豊臣家との友好関係を築いた。政略結婚である。しかし、豊臣政権が有名無実になったものの、豊臣家の威光が少しばかり残っていたのは事実である。

 いったい、家康は豊臣家をどうしようと考えていたのだろうか。武家のトップとなった家康からすれば、いかにかつて政権を主宰した豊臣家であっても、ほかの大名と同じ扱いにしなくてはならなかった。

 また、家康は、豊臣家が西における政治経済の中心地である大坂にいることを好ましく思わなかったに違いない。家康が目指したのは、豊臣家を配下とし、一大名の地位に止めることだった。

 慶長16年(1611)、家康は秀頼を二条城に招き、先に挨拶を行わせた。同時に、諸大名に幕府への忠誠を誓わせた。これにより豊臣家は徳川家に事実上臣従したこととなり、家康は本懐を遂げたものの、まだ不足だった。

 その3年後に起こったのが方広寺鐘銘事件である。家康は鐘銘に言い掛かりをつけるなどし、豊臣家に人質の差し出しを命じるなどの厳しい条件を飲むよう要求をした。しかし、豊臣家は応じなかったのである。

 こうして大坂冬の陣は始まったが、別に家康は本気で豊臣家を滅ぼそうと考えていなかっただろう。戦争はコストが掛かるうえに、長期戦になると、諸大名に負担を掛けることになる。

 家康は全国の大名を動員することができることを顕示し、豊臣家に不利な和睦条件を飲ませ、二度と挙兵できないように抑え込めば十分だった。事実、和睦後に大坂城は丸裸にされ、その防御機能は失われた。

 しかし、大坂城から牢人は退去せず、逆に集まるような状況になった。これでは、さすがの家康もほかの大名に示しがつかない。ここで家康にスイッチが入り、豊臣家を徹底して殲滅することになったと考えられる。

 もし、豊臣家がおとなしく家康に従っていれば、また違った展開になったかもしれない。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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