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ゴールドラッシュの最中に行われた、バーク・ウィルズ探検隊

華盛頓Webライター
credit:unsplash

オーストラリアは長い間、開拓者の間では未開の地として捉えられていました。

そのこともあって探検が盛んに行われるようになり、今回紹介するバーク・ウィルズ探検隊もその一つです。

この記事ではバーク・ウィルズ探検隊の軌跡について紹介していきます。

無鉄砲なリーダーシップによって暗雲が立ち込めた探検隊

1851年、ビクトリア植民地にて黄金が発見されるや否や、瞬く間に始まったゴールドラッシュは、世界中からの移民をメルボルンに引き寄せました。

街は富み栄え、やがて「驚嘆すべきメルボルン」と讃えられるようになったのです。

この賑わいは約40年も続き、学校や図書館、美術館が次々と建設されました。中でもメルボルン大学(1855年)やビクトリア州立図書館(1856年)がその象徴です。

しかし、そんな中で結成された内陸探険隊は、やや奇妙なメンバーで構成されることとなります。

隊長に選ばれたのは、探険経験ゼロのロバート・バーク。

副隊長のランドルズはラクダを買い付けただけ、そして補佐のウィルズは気象学者。

この不可解な選択が、後に探険の失敗を招きました。

1860年8月20日午後4時、メルボルン市内のロイヤル・パークには、15,000人の観衆が詰めかけました。

探検隊の壮大な出発を見守るためです。

隊員は19名、イギリス人、アイルランド人、インド人、ドイツ人、そして米国人が混ざり合い、27頭のラクダと6つの荷馬車を連れていました。

まるで冒険譚の始まりのようだが、実際のところ、隊はまるで引越しでもするかのごとく、20トンもの備品を抱えていたのです。

燃料用木材、スギ材のテーブルに椅子、のろしに旗、中国製の銅鑼まで積み込んでいるのだから、もはや探検というより野営パーティーと呼ぶべきでしょう。

だが、そんな楽観的な雰囲気も長くは続きませんでした。出発して間もなく、荷馬車が次々と故障したのです。

初日の夜にメルボルンの端、エッセンドンで早速一台壊れ、続いてさらに二台も故障しました。

隊のリーダーであるロバート・バークは、この困難にいら立ちを隠せず、さらなる無計画さを発揮します。

副隊長ランドルズが食糧をラクダに運ばせることを提案すると、バークは一部の隊員に徒歩で進むよう命じ、さらに進行が遅れる羽目になりました。

そして、ついには60ガロンものラム酒を廃棄しようとします。

これが副隊長との大喧嘩に発展し、ランドルズはついに隊を離脱してしまいました。

焦るバークは、他の隊が先に大陸を縦断するのではと、急いでクーパーズ・クリークを目指す計画を強行しました。

だが、この無鉄砲なリーダーシップが、やがて隊の運命を大きく狂わせることになったのです。

参考

アラン・ムーアヘッド、木下秀夫訳(1979)『恐るべき空白――死のオーストラリア縦断』、早川書房

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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