ゴールドラッシュの最中に行われた、バーク・ウィルズ探検隊
オーストラリアは長い間、開拓者の間では未開の地として捉えられていました。
そのこともあって探検が盛んに行われるようになり、今回紹介するバーク・ウィルズ探検隊もその一つです。
この記事ではバーク・ウィルズ探検隊の軌跡について紹介していきます。
無鉄砲なリーダーシップによって暗雲が立ち込めた探検隊
1851年、ビクトリア植民地にて黄金が発見されるや否や、瞬く間に始まったゴールドラッシュは、世界中からの移民をメルボルンに引き寄せました。
街は富み栄え、やがて「驚嘆すべきメルボルン」と讃えられるようになったのです。
この賑わいは約40年も続き、学校や図書館、美術館が次々と建設されました。中でもメルボルン大学(1855年)やビクトリア州立図書館(1856年)がその象徴です。
しかし、そんな中で結成された内陸探険隊は、やや奇妙なメンバーで構成されることとなります。
隊長に選ばれたのは、探険経験ゼロのロバート・バーク。
副隊長のランドルズはラクダを買い付けただけ、そして補佐のウィルズは気象学者。
この不可解な選択が、後に探険の失敗を招きました。
1860年8月20日午後4時、メルボルン市内のロイヤル・パークには、15,000人の観衆が詰めかけました。
探検隊の壮大な出発を見守るためです。
隊員は19名、イギリス人、アイルランド人、インド人、ドイツ人、そして米国人が混ざり合い、27頭のラクダと6つの荷馬車を連れていました。
まるで冒険譚の始まりのようだが、実際のところ、隊はまるで引越しでもするかのごとく、20トンもの備品を抱えていたのです。
燃料用木材、スギ材のテーブルに椅子、のろしに旗、中国製の銅鑼まで積み込んでいるのだから、もはや探検というより野営パーティーと呼ぶべきでしょう。
だが、そんな楽観的な雰囲気も長くは続きませんでした。出発して間もなく、荷馬車が次々と故障したのです。
初日の夜にメルボルンの端、エッセンドンで早速一台壊れ、続いてさらに二台も故障しました。
隊のリーダーであるロバート・バークは、この困難にいら立ちを隠せず、さらなる無計画さを発揮します。
副隊長ランドルズが食糧をラクダに運ばせることを提案すると、バークは一部の隊員に徒歩で進むよう命じ、さらに進行が遅れる羽目になりました。
そして、ついには60ガロンものラム酒を廃棄しようとします。
これが副隊長との大喧嘩に発展し、ランドルズはついに隊を離脱してしまいました。
焦るバークは、他の隊が先に大陸を縦断するのではと、急いでクーパーズ・クリークを目指す計画を強行しました。
だが、この無鉄砲なリーダーシップが、やがて隊の運命を大きく狂わせることになったのです。
参考
アラン・ムーアヘッド、木下秀夫訳(1979)『恐るべき空白――死のオーストラリア縦断』、早川書房