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関ヶ原合戦のとき、島左近は死なず、生き長らえていたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
関ヶ原。(写真:イメージマート)

 最近の報道によると、立本寺(京都市上京区)の塔頭の教法院において、島左近の墓の発掘調査が行われたという。こちら。残念ながら左近の遺骸は発掘されなかったが、成人の人骨が見つかったという。今後の調査が大いに期待されよう。

 ところで、島左近の名は、近年になって清興が正しいと指摘されているので、以下、清興で記すことにしたい。

 清興の墓所は立本寺教法院のほか、三笠霊苑東大寺墓地(奈良市)、木川墓地(大阪市淀川区)、浄土寺島村家墓地(岩手県陸前高田市)などにあるが、墓から遺骸が見つかったという報告はない。

 そもそも清興の出自は不明な点が多く、出身地は諸説あるが、大和国が有力視されている。清興は筒井氏に仕えていたが、のちに蒲生氏郷、豊臣秀長、豊臣秀保に仕えたという。その間の動向は関連する史料が乏しいので、不明な点が多い。

 『常山紀談』によると、石田三成は清興に召し抱えたいと申し出たという。いったん清興は断ったものの、最終的に三成の説得に折れて仕官した。当時、三成は4万石の知行だったが、清興には半分の2万石を給与したといわれている。しかし、この説は、今となっては誤りと指摘されている。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦において、清興は三成に従って、その前哨戦から活躍した。杭瀬川の戦いでは、東軍の有馬豊氏、中村一栄の軍勢に戦いを挑み、見事に勝利した。その後の関ヶ原合戦の本戦において、清興は凄絶な戦死を遂げたのである。

 清興は蒲生郷舎と石田軍の先鋒を務めて出陣したが、黒田長政配下の菅六之介に討ち取られた。戦後、黒田軍は清興のいでたちを語ろうとしたが、清興の凄まじい気迫に圧倒されて正確に覚えておらず、記憶が曖昧だったという。

 清興の戦いぶりについては、徳川方が「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と恐れたと伝わっている(『常山紀談』)。誇張があるかもしれないが、清興の激しい戦いぶりは、後世に伝わったのである。

 戦後、首実検が行われたが、清興の首がなかったといわれ、それゆえ生存説がまことしやかに流れた。清興は戦場を離脱すると、京都で潜伏生活を送り、寛永9年(1632)に亡くなったという説が残っている(『石田軍記』)。とはいえ、それは二次史料に書かれたもので、疑わしいのではないか。

 近年、数は少ないながらも、清興の史料が新たに発見された。今回の発掘調査も踏まえつつ、さらに清興の研究が進むことを期待したと思う。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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