【光る君へ】藤原兼家が源雅信とその娘の倫子を恐れた納得の理由
大河ドラマ「光る君へ」では、政界で権力を握ろうと目論んでいた藤原兼家は、ライバルの源雅信とその娘の倫子を恐れていた場面が描かれていた。
そこで、兼家は藤原為時に命じて、娘の「まひろ(紫式部)」を倫子らが集う和歌の勉強会に送り込み、事情を探らせようとした。なぜ、兼家は雅信と倫子を恐れていたのか、考えることにしよう。
念のために申し上げると、ドラマの中で兼家が為時に命じて、娘の「まひろ(紫式部)」を倫子らが集う和歌の勉強会に送り込み、事情を探らせようとする場面があったが、これはフィクションである。
延喜20年(920)、雅信は敦実親王(宇多天皇の皇子)と左大臣を務めた藤原時平の娘との間に誕生した。承平6年(936)、「源」姓を授けられて臣籍に入った。宇多源氏の祖でもある。
同年、雅信は蔭位の制により従四位下に叙されると、以後は順調に出世を重ね、応和2年(962)には従三位に叙された。そんな雅信の転機になったのは、円融天皇の即位だった。
安和2年(969)、円融天皇が新天皇になると、雅信は信任を得て、尋常ならざる出世をした。貞元2年(977)には、右大臣にまで昇進したのである。
くしくも同年は、関白を務めていた藤原兼通(兼家の兄)が病没した年でもあった。兼通が危篤になったとき、弟の兼家は見舞いにすら行かず、朝廷に向かって「自分を関白にしてください」と売り込む始末だった。
このことを知った兼通は激怒し、最期の力を振り絞って人事を行った。その結果、兼通は兼家を治部卿に降格するという人事を行ったのである。兼家が右大臣に昇進したのは、天元元年(978)のことである。
また、兼通は後任の関白に藤原頼忠を指名し、雅信を左大臣に引き上げた。左大臣のほうが右大臣よりも上だったのだから、兼家が焦るのも無理はない。
円融天皇は雅信を厚遇する一方、自身の親政を実り豊かなものにするため、頼忠や兼家を遠ざけることにした。天元5年(982)正月、円融天皇が除目を行った際、関白の頼忠を決定の席に参加させず、事後報告で済ませた。それどころか、円融天皇は除目の実施を雅信に命じた。頼忠は抗議したものの無駄で、徐々にやる気を失っていったという。
雅信が円融天皇に重用されていたので、兼家は恐れた。ドラマ上の話ではあるが、雅信の娘の倫子が入内することになれば、さらに兼家の立場が苦しくなる。
そのような理由で、ドラマの中の兼家は円融天皇の毒殺を目論み、「まひろ(紫式部)」をスパイとして倫子が参加する和歌の勉強会に送り込んだということになろう。
参考文献一覧
大津透『日本の歴史06 道長と宮廷社会』(講談社学術文庫、2009年)