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「四段」「八段」「タイトル防衛」将棋界における「一人前」という言葉の使われ方

松本博文将棋ライター
(写真撮影:筆者)

 将棋のプロの世界ではしばしば、「一人前」という言葉がしばしば使われます。

 辞書を見てみましょう。

いちにんまえ【一人前】

(1)一人に割り当てるべき分量。一人分。

(2)おとなとなること。また、おとなとして扱われること。「言うことだけは―だ」

(3)人並に技芸などを習得したこと。「―の職人になる」

出典:『広辞苑』第7版

 使われる意味はもちろん(2)と(3)です。ただし、時にはそれ以上のニュアンスを含んでいると感じられる場合もあります。

 以下、将棋界で「一人前」という言葉が使われる例を、順にたどっていきたいと思います。

奨励会卒業、四段昇段で一人前

 四段に昇段して一人前の棋士になった時に、師匠の二上達也九段から和服一式をお祝いでいただいた。タイトル戦に出場すれば着る機会ができるので、激励の意味もあったと思う。

出典:朝日新聞「羽生善治の一歩千金」

 現代のプロ棋界では、「四段に昇段して一人前」というフレーズは、もっとも一般的に使われています。

 近代の将棋界の根幹となっているのが「新進棋士奨励会」(略称:奨励会)の制度です。奨励会は棋士の養成機関で、そこに在籍している間は、どれほど強くとも、原則的には無給です。

 奨励会は三段まで。その上の四段に昇段して、初めて正式な棋士としての資格を得ることができます。

 相撲界では幕下までが原則無給で、その上の十両に昇進してから、待遇がよくなるのと似ているでしょうか。

 多くの棋士が四段になって初めて「一人前」になったと思い、その時の喜びを表現してきました。

 一例として、今から六十年以上前、20歳の佐藤大五郎四段(後に九段)の紹介記事を見てみましょう。

 棋界入りして、一番うれしかったのは、四段になつたとき。

「これで、どうやら一人前になれたという気持は、私ばかりではなく、先輩棋士がみな一度は味わつたものと思います」

出典:『将棋世界』1957年9月号

 藤井聡太現七段は中学2年の時、史上最年少の14歳2か月で四段になりました。その歳で既に一人前である、という趣旨の報道もよくされます。

 またこの世界の慣例として、棋士は「先生」と呼ばれることにもなります。藤井四段は14歳、羽生四段は15歳で「先生」でした。

 制度上、四段と、三段までの奨励会員とを分けるものは、とてつもなく大きい。そこで「四段で一人前」の対比として「奨励会は半人前」という言い方をする人もいます。

 奨励会経験者が「半人前」の表現を使うのはもちろん自由です。一方で、他者の立場から「この人たちは半人前です」とは言わないでしょう。

 筆者は、立派に記録係を務めたり、教室やイベントの手伝いをしている奨励会の人たちを多く見てきました。技量的にも、人間的にも、棋士にふさわしいと思える人たちが、四段昇段はかなわず、棋界を去っていく例も、何度も見てきました。そうした人たちを筆者は「半人前」だったとは思いません。言わずもがなのことかもしれませんが、念のため、記しておきます。

フリークラス卒業、順位戦参加で一人前

 四段になると、原則として順位戦の一番下のクラスである、C級2組に参加できます。

 ただし例外として、C級2組の下に位置づけられている「フリークラス」から出発する新四段もいます。

 現在、半年1期(1年度に2期)でおこなわれている奨励会三段リーグでは、上位2人が四段となります。この三段リーグでは、次点2回を取ると、四段に昇段できる権利を得ます。その権利を行使して四段になると、フリークラスへ編入となります。

 また、近年制度化されたプロ編入試験に合格した場合にも、まずはフリークラスへ編入されます。

 フリークラスに入った新四段はそこで一定の成績をあげると、ようやくC級2組順位戦に参加することができます。

 これまでに、三段リーグ次点2回で権利を行使して四段となったのは5人。プロ編入試験で四段となったのは2人。いずれもフリークラスを抜けて、順位戦に参加しています。

 瀬川晶司さんは2005年、35歳の時に異例のプロ編入試験(六番勝負)の機会が設けられ、合格しました。四段デビュー後の2009年には規定の成績をクリアして、フリークラス卒業。以後はC級2組順位戦に参加。昨年2018年には六段に昇段しました。

映画にもなった異色棋士・瀬川晶司さんが六段に昇段(2018年11月8日)

https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20181108-00103477/

 瀬川現六段はブログで、フリークラスを抜けた時のことを、こうつづっています。

 終局直後に主催紙の方よりインタビューを。「プロ入りからの3年半を振り返って」という質問に「ずっと試験期間のようでした」と答えました。

 フリークラスの状態は、何と言うか見習い期間のようで、プロ棋士全員から「お前はプロ棋士としてやっていけるのか」という試験を受けているような感じでした。やっとこれで一人前のプロ棋士になれたように思います。

 質問に答えている途中、不覚にも涙ぐんでしまいました。プロ試験合格直後のインタビューでは堪えたのですが(笑)。

出典:「瀬川晶司のシャララ日記」2009年5月16日

 プロ試験の際にはこらえた涙が、フリークラス卒業の際には抑えられなかった。瀬川現六段にとっては、それほどまでに感激できることだったのでしょう。

五段で一人前(昔の話)

 時代が前後しますが、将棋界では現代的な制度が確立するまでは、五段から上が高段者と見なされました。

 観戦記者の大御所で、将棋史の研究家でもある東公平さん(85歳)に確認したところ、かつては囲碁、将棋ともに、初段から四段までは低段、五段から八段までは高段という認識だったそうです。(ちなみに九段は名人、ただ一人です)

 かつて将棋界では、番付表を作られることがありました。たとえば1891年(明治10年)に発行された『東都将棋鑑』を見てみましょう。

 勧進元はほどなく名人(九段)となった伊藤宗印です。将棋界の中心地である東都(東京)周辺でも、大関格の大矢東吉七段、尾野五平六段(後の小野五平名人)以下五段まで、数えれば両手で足りるほどしか「高段者」はいなかったことがわかります。

 木村義雄14世名人(1905-1986)は1921年(大正10年)、当時としては異例の17歳の若さで五段に昇段しました。その時のことを著書でこう述べています。

 四段までは普通の棋士だが、一段違いでも五段になると、初めて高段者として、一人前ということになる。たとえば弟子を置くにしても、それまでは食事など、台所の隅で手盛にさせても、一向構わなかったのが、高段者の仲間入りをすると、弟子に相当の座敷で、給仕をつけてやらないと、師匠の沽券に拘ることになる。一事が万事、すべてに格がちがうというのだ。

 私なんか内弟子を置く境遇でなかったから、そんなことには無関係だったけれど、世間の見る目と待遇とが、自然に異なってくる。

出典:木村義雄『将棋一代』

 時代が進むにつれ、段位は次第にインフレ化します。そのため現在では五段以上が「高段者」という定義はゆらいでいます。現代では高段とは、八段、九段を差すことが多いと思われます。

A級八段で一人前

 順位戦制度は終戦直後、当時の将棋界のリーダーである木村義雄名人の英断をもってスタートしました。以来七十年以上。順位戦は奨励会とともに、将棋界の根幹をなす制度として機能してきました。

 古来、将棋界の頂点に君臨してきたのはただ一人の名人です。名人の段位は九段でした。その下の八段は「准名人」とも呼ばれました。

 現代では、名人のすぐ下でトップテンの地位を占め、名人挑戦権の座を争うA級にまで昇級すれば、同時に八段に昇段します。戦後の将棋界では「A級八段」が一流棋士の条件の一つと見られてきました。

 四段に昇段した棋士の中でも、A級八段にまでたどりつけるのは、圧倒的に少数派です。

 たとえば2019年現在。現役棋士167人のうち、A級に昇級したことがある棋士は、全部で何人いるでしょうか。

名人・A級 11人中11人

B級1組 13人中6人

B級2組 25人中6人

C級1組 36人中6人

C級2組 52人中3人

フリークラス 30人中2人

 数え上げてみると、34人。割合にして、約20パーセントの狭き門です。

 少しハードルが高すぎるような気もしますが、それでもなお「八段で一人前」と言う棋士もいました。

 以下は1988年、C級1組に昇級して、昇段したばかりの羽生善治五段に関する記事です。

 目標は「六段昇進と竜王戦(読売新聞社主催)に勝ち進むこと」。羽生君は「二上九段に『八段まで一人前でない』と言われているので、まだ半人前です」と謙虚に語った。

出典:「読売新聞」1988年4月13日朝刊

 羽生善治現九段は言うまでもなく現代を代表するトップ棋士ですが、その師匠である二上達也九段(1932-2016)もまた、将棋史に名を刻む名棋士です。

 二上九段は1950年、18歳の時に渡辺東一八段(後に名誉九段)に入門し、付け出し二段で奨励会に入会。同年に四段昇段。以後、順位戦で昇級を重ね、1956年、24歳でA級に昇級し八段昇段。入門してわずか6年でのA級八段となった棋士は、後にも先にも、二上九段の他にいません。

 二上、羽生というスーパー師弟の間で、二上九段は激励の意味も込めて「八段で一人前」としたのでしょう。

 一方で、こんな話もあります。前述の通り佐藤大五郎九段は四段昇段時、「どうやら一人前になれた」と述べていました。では、B級1組から昇級し、晴れてA級八段となった頃には、どうだったでしょうか。新聞記事にはこう書かれています。

 人呼んでマキ割りの大ちゃん。次点に泣かされること数知れず、ようやく念願を果たした。「これで一人前になれた。いい将棋をお目にかけます」と張り切っている。

出典:「朝日新聞」1972年3月31日夕刊

 佐藤大五郎さんは四段昇段後のどこかの時点で、一人前の基準が四段から八段へと上がっていたようです。「八段で一人前」も、あるいは謙虚に受け取られてもいい言葉かもしれません。ただし、言い方次第、相手次第では、そう解釈されなくなってしまうこともあります。

 大ちゃんは八段になった時、祝いを言われると、

「ありがとうございます。将棋指しは八段になってやっと一人前だと思っています」

 と答えた。答えられた者達、皆七段以下だったという。

出典:芹沢博文『王より飛車が好き』1984年刊

(佐藤大五郎八段は)ある七段と対局。順位戦観戦記者の紅がみていると、「私の将棋が日本一の観戦記にのった。やっと一人前(八段)になった」といい、A級入りの観戦記を暗唱する。七段、頭に来て「するとオレは半人前か!」それや、これや、仲間内からにらまれる。

出典:中平邦彦『棋士・その世界』1974年刊

 「紅」とは、当時の人気観戦記者である東公平さんのペンネームです。当時の「朝日新聞」の将棋欄では基本的に、名人戦七番勝負とA級順位戦の観戦記が掲載されていました。その例外として、B級1組の昇級に関わる一番が取り上げられることもあります。この時は佐藤大五郎七段-花村元司八段戦(段位はいずれも当時)の観戦記が掲載されました。

 それにしても、棋士が自分の将棋の観戦記を暗唱する、という話はあまり聞いたことがありません。それだけ嬉しかったということなのでしょう。とはいえ、聞かされる方が対局相手であれば、あまりいい気はしないかもしれません。東公平さんに、当時のことをうかがってみました。

「大五郎さんは純情なんだね。そういうところがありました。でも七段は長くやっていれば、なれる段位でね。やっぱり七段と八段は違いました。大五郎さんより古い(年齢の高い、古参の)七段の人たちだって、そういうことを言ってましたよ。『A級八段にならないと一人前じゃない』ってね」

タイトルを防衛して一人前

 タイトルを取っただけでは半人前。防衛してようやく一人前。

 発言の主は、升田幸三元名人(1918-1991)だそうです。升田元名人は、史上初めて三冠王となるなど、将棋史を代表する名棋士です。それだけの発言をするにふさわしい格の持ち主と言えそうです。

 ところで恥ずかしながら、筆者はいまこの記事を書いている時点で、その発言の出典を示すことができません。いつ、どのような場面で言われたのか。自分のことを言ってるのか。あるいは後進に対する激励となっているのか。

 升田幸三の足跡に関しては日本一詳しい東さんに尋ねてみました。

「さあ、それは覚えてないなあ・・・。でもいかにも言いそうなことですね。あの人は話術の達人でした」

 今後、もしわかれば補足したいと思います。

 それにしても「タイトル防衛で一人前」とは、これもずいぶんとハードルが上がった感じです。将棋界ではタイトルに挑戦するだけでも一流の格です。さらにタイトル獲得、さらに防衛となれば、それはもう文句なしにトップクラスでしょう。

 筆者が手元で数えた限りでは、2019年現在、現役棋士167人のうちタイトル挑戦経験者は38人。そのうち、獲得できたのは28人。さらに防衛まで成功しているのは16人でした。10人に1人という割合です。

 言葉を補うとすれば、防衛成功で「そのタイトルの保持者として一人前」、あるいは「トップクラスとして一人前」ということでしょうか。

 ともあれ、「タイトルを防衛して一人前」とは、現在の将棋界でもよく使われる定番のフレーズです。就位式のあいさつでもよく聞かれます。たとえば、1993年、王位のタイトルを獲得した羽生善治王位(当時23歳)。

 羽生王位は「タイトル戦は挑戦して、奪取して、それから防衛して一人前だと思います。来年、再びこの場で、お目にかかれた時に、初めて王位になれると思います」と決意を語った。

出典:「北海道新聞」1993年10月7日朝刊

 当時すでに五冠王だった羽生王位にして、この謙虚さでした。

「一年間、名人位を預からせていただきます」

 1983年の名人戦七番勝負。谷川浩司八段(21歳)は加藤一二三名人(43歳)に挑戦しました。結果は4勝2敗。史上最年少で、名人位を獲得しました。

 谷川新名人は以下の言葉を残しています。

 「名人位」については、落ち着いてからじっくりと考えてみたい、と思っている。

 が、まだ自分が、技術的にも人間的にも未熟だ、ということは判っている。

 今年一年、名人位を預からせて頂いて、来期の挑戦者に挑戦する、という気持ちで頑張りたい。

出典:『将棋世界』1983年8月臨時増刊号「天才新名人 谷川のすべて」

 終局後のインタビューでも聞かれた「一年間、名人位を預からせていただく」という名台詞は、当時大変に話題となりました。実はこの言葉は、その少し前に王将位を獲得した米長邦雄王将(当時)の手記に似た言葉があり、それを参考にしたものだそうです。将棋界の伝統的な考え方が受け継がれていく一例でしょうか。

 翌1984年。若き谷川名人は初防衛を果たします。

 昨年、名人位を獲得した時は、歴代名人の中でも、一番弱かったと思う。今回防衛して、ようやく「並の名人」である。

 これからは、強い名人、と言われるよう、頑張りたい。

出典:谷川浩司『将棋世界』1984年8月

 この言葉もまた「防衛して一人前」という考えに基づくものなのでしょう。

一人前になるには五十年かかる

 升田幸三は13歳の時、「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」という有名な言葉を物差しの裏に書き残し、将棋指しになりたい一心で、広島県三良坂町(現三次市)の実家を飛び出します。

 その後は広島市内で丁稚奉公をしたり、大阪の木見金治郎八段(没後九段)の内弟子となって様々な雑用をしたりと、大変な苦労をします。そこで次のように思ったそうです。

 それでも、私の頭の中は将棋のことでいっぱいだった。なんとしてでも、将棋で一人前にならなければならない。

「一人前になるには五十年はかかるんだ。功をあせるな。悲観するな。もつと根を深く張るんだ。根を深く張れ――」

 そんなことを、呪文のようにたえず自分で自分にいいきかせ、ともすればくじけそうになる心を必死になって叱りつけ、鞭うっていた。

出典:1966年刊『私をささえた一言』所収、升田幸三

 修行をはじめて五十年かかるとすれば、ほとんどの人は、一人前ではなさそうです。

 1957年。升田幸三は名人、王将、九段と、当時の将棋界のすべてのタイトルを制覇して史上初の三冠を達成しています。その時に「たどり来て、未だ山麓」という言葉を残しました。

私も、まだまだまだ将棋、わかっとらんですよ。

だからぼくは、三タイトルとったり、名人を香落ちに指しこんだりして勝ったときに書いたのが、

――たどりきて未だ山麓

という言葉でしたよ。

出典:升田幸三『勝負』

 2017年。羽生善治は七大タイトル戦すべてで規定の条件を満たし、史上初の「永世七冠」を達成しました。その時の記者会見で「今後、何を目指して戦われますか?」という問いに、こう答えています。

「そうですね、もちろん記録としてのものを目指していく、っていうところもあるんですけれども、やっぱり、将棋そのものを本質的にどこまでわかっているのかと言われたら、まだまだ何もわかっていない、というのが実情だと思うので、これから、自分自身が強くなれるかどうかわからないですけれども、そういう姿勢というか、気持ちをもって、次に向かっていけたらいいなと思っています」

 永世七冠となってなお、「将棋そのものを本質的にまだまだ何もわかっていない」という。

 升田、羽生という両達人にしてそうした言葉があるのですから、改めて将棋の道とは、遠く険しいものと言わざるをえません。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

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