「四段」「八段」「タイトル防衛」将棋界における「一人前」という言葉の使われ方
将棋のプロの世界ではしばしば、「一人前」という言葉がしばしば使われます。
辞書を見てみましょう。
使われる意味はもちろん(2)と(3)です。ただし、時にはそれ以上のニュアンスを含んでいると感じられる場合もあります。
以下、将棋界で「一人前」という言葉が使われる例を、順にたどっていきたいと思います。
奨励会卒業、四段昇段で一人前
現代のプロ棋界では、「四段に昇段して一人前」というフレーズは、もっとも一般的に使われています。
近代の将棋界の根幹となっているのが「新進棋士奨励会」(略称:奨励会)の制度です。奨励会は棋士の養成機関で、そこに在籍している間は、どれほど強くとも、原則的には無給です。
奨励会は三段まで。その上の四段に昇段して、初めて正式な棋士としての資格を得ることができます。
相撲界では幕下までが原則無給で、その上の十両に昇進してから、待遇がよくなるのと似ているでしょうか。
多くの棋士が四段になって初めて「一人前」になったと思い、その時の喜びを表現してきました。
一例として、今から六十年以上前、20歳の佐藤大五郎四段(後に九段)の紹介記事を見てみましょう。
藤井聡太現七段は中学2年の時、史上最年少の14歳2か月で四段になりました。その歳で既に一人前である、という趣旨の報道もよくされます。
またこの世界の慣例として、棋士は「先生」と呼ばれることにもなります。藤井四段は14歳、羽生四段は15歳で「先生」でした。
制度上、四段と、三段までの奨励会員とを分けるものは、とてつもなく大きい。そこで「四段で一人前」の対比として「奨励会は半人前」という言い方をする人もいます。
奨励会経験者が「半人前」の表現を使うのはもちろん自由です。一方で、他者の立場から「この人たちは半人前です」とは言わないでしょう。
筆者は、立派に記録係を務めたり、教室やイベントの手伝いをしている奨励会の人たちを多く見てきました。技量的にも、人間的にも、棋士にふさわしいと思える人たちが、四段昇段はかなわず、棋界を去っていく例も、何度も見てきました。そうした人たちを筆者は「半人前」だったとは思いません。言わずもがなのことかもしれませんが、念のため、記しておきます。
フリークラス卒業、順位戦参加で一人前
四段になると、原則として順位戦の一番下のクラスである、C級2組に参加できます。
ただし例外として、C級2組の下に位置づけられている「フリークラス」から出発する新四段もいます。
現在、半年1期(1年度に2期)でおこなわれている奨励会三段リーグでは、上位2人が四段となります。この三段リーグでは、次点2回を取ると、四段に昇段できる権利を得ます。その権利を行使して四段になると、フリークラスへ編入となります。
また、近年制度化されたプロ編入試験に合格した場合にも、まずはフリークラスへ編入されます。
フリークラスに入った新四段はそこで一定の成績をあげると、ようやくC級2組順位戦に参加することができます。
これまでに、三段リーグ次点2回で権利を行使して四段となったのは5人。プロ編入試験で四段となったのは2人。いずれもフリークラスを抜けて、順位戦に参加しています。
瀬川晶司さんは2005年、35歳の時に異例のプロ編入試験(六番勝負)の機会が設けられ、合格しました。四段デビュー後の2009年には規定の成績をクリアして、フリークラス卒業。以後はC級2組順位戦に参加。昨年2018年には六段に昇段しました。
映画にもなった異色棋士・瀬川晶司さんが六段に昇段(2018年11月8日)
https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20181108-00103477/
瀬川現六段はブログで、フリークラスを抜けた時のことを、こうつづっています。
プロ試験の際にはこらえた涙が、フリークラス卒業の際には抑えられなかった。瀬川現六段にとっては、それほどまでに感激できることだったのでしょう。
五段で一人前(昔の話)
時代が前後しますが、将棋界では現代的な制度が確立するまでは、五段から上が高段者と見なされました。
観戦記者の大御所で、将棋史の研究家でもある東公平さん(85歳)に確認したところ、かつては囲碁、将棋ともに、初段から四段までは低段、五段から八段までは高段という認識だったそうです。(ちなみに九段は名人、ただ一人です)
かつて将棋界では、番付表を作られることがありました。たとえば1891年(明治10年)に発行された『東都将棋鑑』を見てみましょう。
勧進元はほどなく名人(九段)となった伊藤宗印です。将棋界の中心地である東都(東京)周辺でも、大関格の大矢東吉七段、尾野五平六段(後の小野五平名人)以下五段まで、数えれば両手で足りるほどしか「高段者」はいなかったことがわかります。
木村義雄14世名人(1905-1986)は1921年(大正10年)、当時としては異例の17歳の若さで五段に昇段しました。その時のことを著書でこう述べています。
時代が進むにつれ、段位は次第にインフレ化します。そのため現在では五段以上が「高段者」という定義はゆらいでいます。現代では高段とは、八段、九段を差すことが多いと思われます。
A級八段で一人前
順位戦制度は終戦直後、当時の将棋界のリーダーである木村義雄名人の英断をもってスタートしました。以来七十年以上。順位戦は奨励会とともに、将棋界の根幹をなす制度として機能してきました。
古来、将棋界の頂点に君臨してきたのはただ一人の名人です。名人の段位は九段でした。その下の八段は「准名人」とも呼ばれました。
現代では、名人のすぐ下でトップテンの地位を占め、名人挑戦権の座を争うA級にまで昇級すれば、同時に八段に昇段します。戦後の将棋界では「A級八段」が一流棋士の条件の一つと見られてきました。
四段に昇段した棋士の中でも、A級八段にまでたどりつけるのは、圧倒的に少数派です。
たとえば2019年現在。現役棋士167人のうち、A級に昇級したことがある棋士は、全部で何人いるでしょうか。
名人・A級 11人中11人
B級1組 13人中6人
B級2組 25人中6人
C級1組 36人中6人
C級2組 52人中3人
フリークラス 30人中2人
数え上げてみると、34人。割合にして、約20パーセントの狭き門です。
少しハードルが高すぎるような気もしますが、それでもなお「八段で一人前」と言う棋士もいました。
以下は1988年、C級1組に昇級して、昇段したばかりの羽生善治五段に関する記事です。
羽生善治現九段は言うまでもなく現代を代表するトップ棋士ですが、その師匠である二上達也九段(1932-2016)もまた、将棋史に名を刻む名棋士です。
二上九段は1950年、18歳の時に渡辺東一八段(後に名誉九段)に入門し、付け出し二段で奨励会に入会。同年に四段昇段。以後、順位戦で昇級を重ね、1956年、24歳でA級に昇級し八段昇段。入門してわずか6年でのA級八段となった棋士は、後にも先にも、二上九段の他にいません。
二上、羽生というスーパー師弟の間で、二上九段は激励の意味も込めて「八段で一人前」としたのでしょう。
一方で、こんな話もあります。前述の通り佐藤大五郎九段は四段昇段時、「どうやら一人前になれた」と述べていました。では、B級1組から昇級し、晴れてA級八段となった頃には、どうだったでしょうか。新聞記事にはこう書かれています。
佐藤大五郎さんは四段昇段後のどこかの時点で、一人前の基準が四段から八段へと上がっていたようです。「八段で一人前」も、あるいは謙虚に受け取られてもいい言葉かもしれません。ただし、言い方次第、相手次第では、そう解釈されなくなってしまうこともあります。
「紅」とは、当時の人気観戦記者である東公平さんのペンネームです。当時の「朝日新聞」の将棋欄では基本的に、名人戦七番勝負とA級順位戦の観戦記が掲載されていました。その例外として、B級1組の昇級に関わる一番が取り上げられることもあります。この時は佐藤大五郎七段-花村元司八段戦(段位はいずれも当時)の観戦記が掲載されました。
それにしても、棋士が自分の将棋の観戦記を暗唱する、という話はあまり聞いたことがありません。それだけ嬉しかったということなのでしょう。とはいえ、聞かされる方が対局相手であれば、あまりいい気はしないかもしれません。東公平さんに、当時のことをうかがってみました。
「大五郎さんは純情なんだね。そういうところがありました。でも七段は長くやっていれば、なれる段位でね。やっぱり七段と八段は違いました。大五郎さんより古い(年齢の高い、古参の)七段の人たちだって、そういうことを言ってましたよ。『A級八段にならないと一人前じゃない』ってね」
タイトルを防衛して一人前
タイトルを取っただけでは半人前。防衛してようやく一人前。
発言の主は、升田幸三元名人(1918-1991)だそうです。升田元名人は、史上初めて三冠王となるなど、将棋史を代表する名棋士です。それだけの発言をするにふさわしい格の持ち主と言えそうです。
ところで恥ずかしながら、筆者はいまこの記事を書いている時点で、その発言の出典を示すことができません。いつ、どのような場面で言われたのか。自分のことを言ってるのか。あるいは後進に対する激励となっているのか。
升田幸三の足跡に関しては日本一詳しい東さんに尋ねてみました。
「さあ、それは覚えてないなあ・・・。でもいかにも言いそうなことですね。あの人は話術の達人でした」
今後、もしわかれば補足したいと思います。
それにしても「タイトル防衛で一人前」とは、これもずいぶんとハードルが上がった感じです。将棋界ではタイトルに挑戦するだけでも一流の格です。さらにタイトル獲得、さらに防衛となれば、それはもう文句なしにトップクラスでしょう。
筆者が手元で数えた限りでは、2019年現在、現役棋士167人のうちタイトル挑戦経験者は38人。そのうち、獲得できたのは28人。さらに防衛まで成功しているのは16人でした。10人に1人という割合です。
言葉を補うとすれば、防衛成功で「そのタイトルの保持者として一人前」、あるいは「トップクラスとして一人前」ということでしょうか。
ともあれ、「タイトルを防衛して一人前」とは、現在の将棋界でもよく使われる定番のフレーズです。就位式のあいさつでもよく聞かれます。たとえば、1993年、王位のタイトルを獲得した羽生善治王位(当時23歳)。
当時すでに五冠王だった羽生王位にして、この謙虚さでした。
「一年間、名人位を預からせていただきます」
1983年の名人戦七番勝負。谷川浩司八段(21歳)は加藤一二三名人(43歳)に挑戦しました。結果は4勝2敗。史上最年少で、名人位を獲得しました。
谷川新名人は以下の言葉を残しています。
終局後のインタビューでも聞かれた「一年間、名人位を預からせていただく」という名台詞は、当時大変に話題となりました。実はこの言葉は、その少し前に王将位を獲得した米長邦雄王将(当時)の手記に似た言葉があり、それを参考にしたものだそうです。将棋界の伝統的な考え方が受け継がれていく一例でしょうか。
翌1984年。若き谷川名人は初防衛を果たします。
この言葉もまた「防衛して一人前」という考えに基づくものなのでしょう。
一人前になるには五十年かかる
升田幸三は13歳の時、「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」という有名な言葉を物差しの裏に書き残し、将棋指しになりたい一心で、広島県三良坂町(現三次市)の実家を飛び出します。
その後は広島市内で丁稚奉公をしたり、大阪の木見金治郎八段(没後九段)の内弟子となって様々な雑用をしたりと、大変な苦労をします。そこで次のように思ったそうです。
修行をはじめて五十年かかるとすれば、ほとんどの人は、一人前ではなさそうです。
1957年。升田幸三は名人、王将、九段と、当時の将棋界のすべてのタイトルを制覇して史上初の三冠を達成しています。その時に「たどり来て、未だ山麓」という言葉を残しました。
2017年。羽生善治は七大タイトル戦すべてで規定の条件を満たし、史上初の「永世七冠」を達成しました。その時の記者会見で「今後、何を目指して戦われますか?」という問いに、こう答えています。
「そうですね、もちろん記録としてのものを目指していく、っていうところもあるんですけれども、やっぱり、将棋そのものを本質的にどこまでわかっているのかと言われたら、まだまだ何もわかっていない、というのが実情だと思うので、これから、自分自身が強くなれるかどうかわからないですけれども、そういう姿勢というか、気持ちをもって、次に向かっていけたらいいなと思っています」
永世七冠となってなお、「将棋そのものを本質的にまだまだ何もわかっていない」という。
升田、羽生という両達人にしてそうした言葉があるのですから、改めて将棋の道とは、遠く険しいものと言わざるをえません。