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サディズムの生みの親、サド侯爵の軌跡

華盛頓Webライター
credit:unsplash

マルキ・ド・サド(1740年 - 1814年)は、フランス革命期の貴族、作家、哲学者であり、その独特で過激な文学作品で広く知られています。

彼のフルネームはドナシアン=アルフォンス=フランソワ・ド・サドで、「サディズム」という言葉の語源にもなっているのです。

サドの著作は、人間の欲望、権力、そして社会の道徳を鋭く批判する内容で、しばしば暴力的かつ挑発的な表現を含んでいます。

生涯を通じて、サドは自由と抑圧の矛盾に挑戦し続け、時代を超えて影響を与えました。

若年期と貴族としての生活

サドは1740年、パリの貴族家庭に生まれました

父は外交官、母は王族に仕える貴婦人という上流階級の環境で育ち、幼少期から知的・文化的教育を受けたのです。

軍学校に入学し、その後軍人として七年戦争に従軍します。

しかし次第に放蕩な生活を始め、家庭内での問題やスキャンダルが増えていきます。

彼は妻であるルネ=プレラント・ド・モントルイユと結婚しましたが、結婚後も多くの愛人関係を持ちました。

特にサディズム的な性的行動が注目を集め、世間からの批判を受けたのです

投獄と作品執筆

サドの行動や思想は当時の基準からはるかに逸脱しており、フランス王家やカトリック教会からは異端者と見なされました

サドは度重なる逮捕と投獄を経験し、そのほとんどをバスティーユ監獄で過ごしたのです

この期間中に、彼の最も有名な作品である『ソドム百二十日』が執筆されましたが、この原稿はバスティーユ襲撃で散逸したのです。

サドは監獄内でも執筆を続け、極限の人間心理や快楽、権力について探求する作品を生み出しました

彼の作品には、特に宗教や道徳に対する激しい批判が見られます。

彼の思想は個人の自由を重視し、既存の秩序や権威に挑戦するものであり、のちの自由主義思想にも影響を与えたとされているのです。

革命期の関与と晩年

フランス革命が勃発すると、サドはバスティーユから「彼らはここで囚人を殺している!」と叫び、革命のきっかけの一つを作ったと言われています。

その後革命が終わるとサドは釈放され、パリで執筆活動を始めました。

その後、ナポレオンの台頭に伴い、再び危険視され、1801年に執筆活動を理由に逮捕されます。

この逮捕後、晩年をほぼ精神病院に相当する施設で過ごしましたが、そこで恋人や友人との交流を通じて執筆を続けました。

死後の評価と影響

1814年にサドは死去しましたが、彼の思想や文学は長らく禁書扱いされ、その影響が広く認められるようになったのは19世紀後半以降です

彼の文学はフロイトの精神分析やニーチェの哲学、シュルレアリスムに多大な影響を与えました。

サドの描く人間像は、社会のタブーを暴露し、人間の欲望や暴力性を赤裸々に描き出すことで、多くの読者に「人間とは何か」を問いかけるものだったのです。

現代では、マルキ・ド・サドの作品は、単なる文学以上の意義を持つとされています。

彼の著作は、自由と道徳、欲望と抑圧、そして人間の本性についての深い考察を促すものであり、時代を超えて議論され続けているのです。

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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