凱旋門賞に挑戦し、有馬記念に出走するクリンチャーに寄り添う男が考える”恩返し”の形とは……
1人の男とクリンチャーとの出会い
今週末の有馬記念にクリンチャー(牡4歳、栗東・宮本博厩舎)が出走する。
前走は欧州最大のレース・凱旋門賞。今回は同馬と同じ時間、同じ空間をフランスで過ごした男に当時のエピソードを伺いつつ、グランプリへ向けた想いを語っていただいた。
1972年10月19日、京都市で生まれたのが長谷川万人だ。現在46歳の彼の名は万人と書いて“かずひと”と読む。
器械体操をしていた幼少時に、5歳年上の姉が好きだった競馬を見るようになった。オグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンらが3強と呼ばれた時代だった。
高校卒業後、映画の仕事をしたくてアメリカへ留学。ステイ先のホストの知り合いに馬主がいて、デルマー競馬場を訪れた。元から競馬には興味があったこともあり、その美しさに目を奪われた。
映画を諦めて帰国した後は北海道へ飛び、牧場で働いた。
「ここで馬乗りを教わりました。初めて乗った時は何度も落とされて『道を間違ったか?!』と思いました」
それでも馬が好きだったので辞めようとは思わなかった。「苦しい時もあるけど、楽しく乗らなくては……」という先輩の助言にも励まされ、やがて上達。27歳の1月に競馬学校入学を果たすとその夏から栗東トレセンで汗を流す事になった。
「見慣れている騎手が沢山歩いていて不思議な気持ちになりました」
2004年からは開業スタッフとして宮本博厩舎で働き出した。その後、干支がひと回りする頃に出会ったのがクリンチャーだった。
「最初は調教も動かないし腰もトモも甘かったけど、何か感じるものがありました」
3歳1月のデビュー戦は11番人気で12着。2戦目の未勝利戦は14頭立ての14番人気と更に支持を落とした。
このレースの発走直前、新たにコンビを組んだ藤岡佑介との会話を長谷川は述懐する。
「ゲート裏で『逃げても良いですか?』と聞かれたので『好きにして良いから一発決めてきて』と答えました」
この判断が吉と出る。スタートからハナを奪ったクリンチャーは結局最後まで他馬に先頭を譲る事なくゴール。単勝244・8倍のダブル万馬券というロングショットを決めた。
「佑介はレース後すぐに『まだ体は出来ていないけど走る馬です!!』と言ってくれました。宮本調教師とは『秋は菊花賞を目指しましょう』と話しました」
ところが馬の成長曲線は陣営が考えている以上に右肩上がりの上昇をみせた。3戦目のすみれSで連勝を決め、秋を待たずしてクラシック戦線に名乗りをあげたのだ。
「皐月賞も4着と善戦して、僕にとっても初めてとなるダービー出走もかないました(13着)。秋は菊花賞で2着。極悪馬場の中、最後まで一所懸命に走る姿に涙があふれました」
古馬となった初戦の京都記念ではついにダービー馬レイデオロを撃破。重賞初制覇を飾った。
さらに春の天皇賞も3着と好走すると、秋にはフランスへ飛んだ。
ついに凱旋門賞に挑戦!!
その往路、ドイツのフランクフルトからは陸送された。馬運車に積むと、馬をつなぐ設備がないことに驚かされた。
『つながなければ自分の楽な位置で立つから暴れることもなくかえって安全だ』と言われ、目から鱗が落ちる思いをした。
「その馬運車の運転手に『デインドリームが凱旋門賞を勝った時(2011年)、ドイツから運んだのが俺なんだ』と言われ、良い風が吹いているかと思いました」
ところが前哨戦のフォワ賞で雲行きが怪しくなった。
「(パリロンシャン)競馬場が新しくなっており、パドックが以前とは逆回りになっていました。報されないままパドックへ入ったので、まずそこにビックリしました」
実戦でも最下位6着に敗れると欧州の最高峰が霞み出した。しかし、そんな時にも長谷川は言っていた。
「僕はカーレースが好きなのですが、佐藤琢磨が言っていました。『ノーアタック、ノーチャンス』と。どれだけ厳しくても出る限りチャンスはあると信じて、自分は自分の仕事をいつも通りしっかりとやるだけです」
こうして迎えた凱旋門賞当日。シャンティイの厩舎からパリロンシャン競馬場へ馬運車で向かっていると、日本の友人や知人、先輩、後輩や同期からも沢山のメッセージが携帯に届いた。
「初めにこのプランを聞いてから、多くの人に助けられ、支えられてここまで来たと思うと胸が熱くなりました。そして、そういった皆のためにも好結果を出したいと思いました」
本馬場入場後、クリンチャーを曳いている時には鞍上の武豊から声をかけられたと言う。
「『この景色を目に焼き付けておこう』と言われました」
そう語る天才を見ると、彼自身、スタンドに視線を投げていた。それを見て、同じようにスタンドを見上げた。そこには今まで見たことのない景色が広がっていた。
「『本当に凱旋門賞に出走するんだ!!』って改めて感じました」
結果は皆さんご存知の通り。残念ながら17着に敗れた。しかし、長谷川は何にも代え難い経験を手に入れた。
「少しでも良い着順を、と頑張ったけど、オーナーや調教師、ファンの皆さんの期待に応える結果とはならず申し訳なく感じました。ただ、クリンチャーは一所懸命に走ってくれたし、まずは無事で帰ってきてくれた。それに関しては良かったと思いました」
武豊からは「G1ホースになってまた帰って来ましょう」と声をかけられた。その言葉を聞き、長谷川は次のように感じたと語る。
「G1を勝たせて再び活躍させる事こそが、オーナーや調教師、応援してくださった皆様に対する恩返しだと強く思いました」
恩返ししなくてはいけないもう1人の人のために
さて、そんな恩返しをする相手の中に、忘れてはならない1人がいるのだと、取材をしていて強く感じた。
フォワ賞が終わり、凱旋門賞へ向かうまでの間、5日間だけ“その人”は現地を訪れた。
長谷川の妻だった。
福島で知り合った彼女とは遠距離恋愛で愛を育んだ。その後、距離や会えない時間の壁を克服し、晴れて結ばれた。そんな2人は新婚旅行でフランスを訪れていた。
「当時、ロンシャン競馬場にも行って『いつか馬を連れてここに来たい。それが俺の夢だ』と妻に話しました。今回は妻と3人の子供達と思い出の地を巡り『不思議だね……』と話し合いました」
夫人は「仕事の邪魔をしたくない」と凱旋門賞を待たずして帰国したが、淡い想いを思い出させてもらった長谷川は改めてクリンチャーに感謝をした。
そんなクリンチャーと臨む帰国初戦。長谷川はどんな気持ちでパドックを曳くだろう。その表情にも注目したい。
(文中敬称略、写真提供=平松さとし)