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大坂夏の陣前夜、兵庫、尼崎、西宮の海上封鎖を行った徳川方の思惑とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
六甲山から見える大阪湾(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康と豊臣秀頼が雌雄を決する覚悟が描かれていた。開戦が迫る頃、徳川方は兵庫、尼崎、西宮の海上封鎖を行い、来るべき戦いに備えた。なぜ、兵庫、尼崎、西宮の海上封鎖を行ったのか、考えてみることにしよう。

 慶長20年(1615)3月14日、徳川秀忠の奉行衆は西国大名の留守居を江戸城に呼び出し、大坂へ米を輸送しないように命令した。そして、自国の年貢米を換金する場合は、尼崎を経て伏見(京都市伏見区)で金に換えるように要請した(『浅野家旧家』)。

 鍋島勝茂も同様の命令を受けており、米以外の物資の年貢の運搬に際しても、まず船で尼崎に入港し、そこで換金するよう求められたのである(『鍋島勝茂譜考補』)。

 当時、米や米以外の物資の年貢は、都市で換金されていた。中でも大坂は、もっとも大きな市場として知られていた。しかし、大坂への米などの搬入を認めると、豊臣方に流れる可能性が無きにしも非ずだった。

 そこで、次善の策として、京都・伏見や尼崎での換金を要請したのである。秀忠は豊臣方との戦争が近づくと予想し、豊臣方へ兵糧となる米が流出しないように措置を行ったのである。

 実際に諸大名の米などが換金されたのは、大坂の伝法口(大阪市此花区)、船場(同中央区)、そして伏見だったといわれている。兵庫、西宮、尼崎は、伏見城と大坂城をつなぐ淀川水系の水運交通が至便であり、大阪湾から瀬戸内海に至る海上交通も発達していた。

 さらに、東北、中部、北陸地方の材木調達は、大坂・伏見を拠点としていた。つまり、この地域は西国の経済圏として発達していたのである。

 4月8日、本多正純は島津家久に書状を送った(『薩藩旧記雑録後編』)。その内容を箇条書きで示すと、次のとおりである。

①豊臣方との交渉が決裂し、家康が上洛しても、国許で指示があるまで待機すること。
②出陣の指示をしたときは、兵庫、西宮、尼崎に来ること。

 徳川方は家久に対して、戦争が勃発した場合は大坂に来るのではなく、その手前の兵庫、西宮、尼崎に出陣するよう命じていたが、もちろんそこには理由があった。大坂冬の陣後、西国大名は再戦を予想して、兵庫、西宮、尼崎に兵を残していた。

 諸大名の兵が大勢いた事情もあり、兵庫を中心にして米価は高騰していたので、この付近も年貢米の換金できる市場となっていたという。したがって、先述した幕府の換金場所の指示というのは、決して不適切なものではなかったのである。

 徳川方は、流通の要で物資が集積する兵庫や尼崎を押さえることにより、豊臣方に兵糧や武器が持ち込まれることを阻止しようとした。そこに海上封鎖の意味があったのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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