都合の悪いことは忘れる、それが人間。映画『百花』(ネタバレ)
※この評にはネタバレがあります。見てから読むことを強くおススメします。
都合の悪いことを忘れるのは「自己防衛本能」で説明ができるそうだ。
私の記憶にも、空白の数年間、というのがある。
普通に生活していたのだろうが、何を考えていたのかはまったく覚えていない。何年続いたのかも覚えていない、というか知りたくない。
だが、はっきり記憶にあるのは、私の忘却が「罪の意識」によるものであることだ。罪の意識にさいなまれるのは辛いので、忘れることにした。そういう防衛のメカニズムが私に働いた。
■『百花』の母は都合良く忘れる
『百花』の母を見ていると、同じことなのかな、と思う。彼女がした酷い出来事。罪の意識が都合の悪い事実を忘れさせた、と。
もっとも、彼女はアルツハイマー型の認知症なので、いろんなことを忘れる。
思い出したくないことを真っ先に忘れるものなのかはわからないが、忘れてしまうメカニズムに忘れてしまいたいことが優先的に組み込まれることはありそうだ。
その反面、良いことの方は覚えている。
あんな楽しかったことがあった。あの時はみんなが私を祝福してくれた。私はみんなに愛されていた……なんて。
ただ、それも記憶を書き換えた結果なのかもしれない。
都合の悪いことを都合良く書き換える能力も、人間には備わっている。
実際には嫌われていたのだが、自分の記憶の中では愛されていた、ということになっている。
しかも、書き換えは無意識に行われるというから、素晴らしい。つまり、嘘で人生を美化しているわけでなく、本人は本当にそう思っている。
人間って本当に勝手だ。
だが、勝手だからこそニコニコ笑って生きていけるのかもしれない。
■息子は都合の悪いことを思い出す
『百花』の息子の方にも空白の期間があった。
母のした酷いことを自己防衛本能が忘れさせてくれていた。いや、酷いこと自体は覚えているのだが、ディテールがとんでいて心のダメージを軽減してくれていた。
この親子の構図で、可哀想なのは息子の方だ。
母親が都合の悪いことを忘れていくのに対し、息子は母との接触を通じて忘れていた都合の悪いことを思い出させられて、真相を知らされることになるからだ。
思い出したくなんてない。まして、真相なんて知りたくない。
大人となった今となってはどうでもいいことだ。張本人の母だってどうせ覚えていないだろうし、覚えていても都合良く記憶が書き換えられているだろうし……。
なのに、「記録」によって、その真相と向き合わざるを得なくなる。記憶は都合良く変えられるが、記録の方はそうではない。
■愛されていたが大した愛ではない
もちろん、母と接するメリットもある。
母の言葉によって、忘れていた良いことを思い出す。嫌な記憶と一緒にとんでいたり、単に子供だったから忘れていたりした美しい思い出を取り戻す。
“ああ、やっぱり母は僕のことを愛してくれていた”と再確認できる。
しかし、だ。一方で、愛がなかった動かぬ証拠の方も突き付けられてもいる。吐き気がするほどの事実。
愛されてはいた。だが、大した愛ではなかった。別の愛に夢中になれば忘れられてしまう程度の愛だった。ネグレクトされ放棄される程度の愛だった。
結局はバランスではないだろうか?
「愛憎」の愛が上回れば許す。憎が上回れば許さない。
■水に流す。なかったことにする知恵
立場の違いもある。
母に感情移入すれば“許してほしい”となりやすく、息子に感情移入すれば“いくら母でも……”となりやすい。
息子からすれば、許してくれ、というのは都合が良過ぎる、と感じやすい。
なにせ、被害を受けたのは息子である。母は加害者である。
この事実は揺るがない。
ただ、愛と憎、許す許さない、の二者択一以外にも落としどころはある。
それが「水に流す」ことだ。
いろいろあったが、水に流そう。忘れよう。母親の方はどんどん忘れていくのである。ならば、息子の私も忘れるよう努力しよう。
あったことを許すのではなく、「なかったことにする」ことで解決をする。
それで母と息子の関係は「防衛」される――。
この作品で、川村元気監督はサン・セバスティアン映画祭の最優秀監督賞を受賞した。
映像も音楽も美しい。
だが、単なる感動作だとは思わない。ハッピーエンドにも見えない。愛を肯定するよりも、葛藤させられたことの方が多かった。
※写真提供はサン・セバスティアン映画祭