『ブギウギ』スズ子に大きな転機! 反骨の女王〈淡谷のり子〉の「名言」
戦時下のスズ子、3つの「悩み」
11月27日(月)から12月1日(金)までの第9週。
1940(昭和15)年、スズ子(趣里)は3つの「悩み」を抱えていました。
まず、一緒に暮らし始めて1年が過ぎた、父・梅吉(柳葉敏郎)です。
妻のツヤ(水川あさみ)を失った悲しみが消えないとはいえ、その酒びたりの毎日には、スズ子も手を焼いていました。
次に、出征した弟・六郎(黒崎煌代)のことです。
亀のことばかり書かれた手紙は届いたものの、戦地でどんなふうに過ごしているのか。
しかし、心配しても手の届かない場所にいるわけで、スズ子は六郎の無事を祈るしかありません。
「案山子(かかし)」になったスズ子
3番目の悩み。それは自分の「歌」のことでした。
日中戦争が始まって3年がたち、世の中の戦時色が一層強まったことで、自分らしいパフォーマンスができなくなってきました。
実際、昭和15年には内務省が文部省と合同で、「音楽文化の浄化」を開始しています。この「浄化」という言葉がすごい。
それは既存の流行歌を、戦意を後退させる「戦争の邪魔物」として、社会から排除する動きでした。
警察から、舞台の上で動き回るのは軽薄だと指摘され、三尺(約1メートル)四方の枠の中で歌うことになったスズ子。
躍動感のある曲「ラッパと娘」も、じっと立ったままで歌わなくてはなりません。
まるで「案山子(かかし)」になったようで、スズ子の個性と魅力が封じられたも同然です。
戦時下の日本で、歌手として生きる女性の苦悩や葛藤。
悩みは深まりますが、梅丸楽劇団の一員という立場では、当局に逆らうのは難しいことでした。
茨田りつ子「これはあたしの戦闘服よ」
そんなスズ子を、いろんな意味で刺激したのが、「ブルースの女王」茨田りつ子(菊地凛子)です。
警察の取調べを受け、その派手な化粧や衣装を批判されると、津軽弁でこう言い返していました。
「冗談でねえ! あたしはお客さ、夢見せる歌手だ。着飾って何わりい!」
また、高いヒール、派手なドレス、真っ赤な口紅も鮮やかなりつ子に、国防婦人会の女性たちが詰め寄る場面もありました。
「今は日本国民が皆一致団結し、戦地の兵隊さんを応援するときです。それをあなたは、そんな姿で、前線の皇軍将兵の皆さんに顔向けできますか?」
このとき、りつ子が放った言葉が・・・
「これはあたしの戦闘服よ。丸腰では戦えません」
続けて・・・
「それ(化粧や衣装の禁止)は、あたしに死ねって言うのとおんなじです」
この『戦闘服』という見事な啖呵(たんか)は、りつ子のモデルである、淡谷のり子の言葉です。
「ブルースの女王」は「反骨の女王」でもありました。
淡谷は、慰問団のメンバーとして戦地に派遣されたときも、捕虜の米英兵士を目にして、英語の歌を歌って彼らを慰労したそうです。
歌手としての自分を危険にさらす、いわば命がけの行為でした。
自分のスタイルを変えないのは、プロの歌手としての「プライド」。
りつ子を通じて、淡谷のり子の強い「反骨精神」も物語に反映されているのです。
そして、大きな「転機」へ
梅丸楽劇団が解散となった後、スズ子は、りつ子の公演に出向きました。
そこで、ナマで聴く『別れのブルース』に感動します。
その感動を、りつ子に伝えると・・・
「イライラする。あんた歌いたいんじゃないの? なら人の歌なんかに感動してないで歌いなさい!」
雷に打たれたような衝撃を受けるスズ子。
楽劇団は消滅したのです。もう自分を縛るものはなくなった。自分の歌を歌えるじゃないか!
スズ子は、大きな転機を迎えました。
ついに、自前の「福来スズ子とその楽団」が動き出します。