平安京さんぽシリーズ③ 東西のメインストリート二条通を歩く(前編)
二条通は平安京の二条大路にあたり、大内裏の南端を兼ね、幅は50メートルあったことから、朱雀大路を除けば最大級の東西の通りだった。
平安時代の貴族達は、この通りに家を構えることがステイタスであり、さらに平安末期には最初に鴨川を越えて東へと伸長された。現在は、東は白川通から、西は堀川通に至る約3.5キロの道となる。
今回は、現在の二条通の西端に位置する二条城からスタートしよう。
二条城は、関ヶ原の戦いを経て天下をほぼ手中にした徳川家康が、慶長8(1603)年に10か月というスピードで造営した。天下の趨勢は決まった後の城であったことから、石垣は低く、防御面はそれまでの城ほど考慮されていなかった。さらに中心となる二の丸御殿の入口には車寄せを設け、内部には勅使の間も常設するなど、朝廷を意識した造りとなっているのが特徴だ。
幕末には大政奉還の舞台となり、明治時代に入って宮内庁管轄の離宮時代を経て、昭和14年から京都市が所有して現在に至っている。国宝指定の二の丸御殿はもちろん、特別名勝庭園となっている二の丸庭園も必見だ。
ではいよいよ二条通を東へと進もう。南北の道をチェックしながら、釜座通で少し北へ進むと、通称「こぬか薬師」の名で知られる薬師院が見えてくる。
黄檗宗の寺院であり、10月8日に年に一度ご開帳される本尊は、最澄が一刀三礼(1回刻むたびに3回拝む)の礼を尽くして彫ったと伝わる薬師如来だ。寛喜2(1230)年に疫病が流行ったとき、住職の夢にあらわれた薬師如来からの「一切病苦、わが前に来たらば諸病ことごとく除くべきに来也(こぬか)来也(こぬか)」とのお告げによって、人びとが救われたという話にちなんで「こぬか薬師」の名がついた。
以来、本尊にお祈りするとたちまち病気は治り、長寿をまっとうできたことから、遠国からも病人が病気平癒を願って集まってきた。このため江戸時代を通じて多くの参拝者があり、その参拝者を目当てに多くの薬問屋が並んだ。
その名残りとして、烏丸通の手前に薬祖神祠(やくそじんし)という神社がある。こちらには大巳貴命(大国主命)と小彦名命、中国の医薬の神様「神農」、西洋医学の父とされるギリシャの哲学者「ヒポクラテス」まで祀られているのが面白い。
その後、堺町通まで進んで北へ進むと風情ある町家が出現。こちらがキンシ正宗堀野記念館だ。キンシ正宗の発祥の地であり、明治13(1880)年に酒造拠点が伏見に移ってからも、創業者である堀野家の伝統的京町家が現在も保存されているとともに、酒造道具類も当時の様子を伝える文化資産として今に受け継がれている。また庭に湧き出でる「桃の井」は、京都の名水の一つに数えられている(2023年現在は見学休止中)。
その後、二条通は寺町通で大きくクランクするが、この寺町通から再び二条通になる曲がりの部分は、緩やかなカーブを描いている。これは市電が走っていた軌道の名残りだ。
そして河原町通との交差点北西には法雲寺がある。平安中期、この地には関白太政大臣・藤原兼家の邸宅・二条第があり、兼家は晩年の正暦元(990)年に二条第を寺院に改めた。
境内には本堂の他に、庫裏と裏側に「菊野大明神」が祀られており、縁切り縁結びの社として近年参拝者が増えている。
二条城から始まった「洛中」の二条通歩き、次回は「洛外」へも足を延ばしてみよう。