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快進撃の羽柴秀吉! ついに土佐の長宗我部氏を屈服させる

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
羽柴(豊臣)秀吉像。(写真:イメージマート)

 今回の「どうする家康」では、羽柴秀吉が徳川家康・織田信雄と和睦を結んだ。その後、秀吉は相変わらず抵抗し続ける長宗我部元親を討伐したので、確認することにしよう。

 天正13年(1585)3月、秀吉は反抗的な態度を示してきた、紀州惣国一揆への攻撃を開始した。紀州惣国一揆は、根来寺(和歌山県岩出市)、粉河寺(同紀の川市)、雑賀衆(和歌山市)など和泉、紀伊の反秀吉勢力で構成されていた。

 一揆衆が籠る太田城(同上)への攻撃の方法は、備中高松城(岡山市北区)と同じく水攻めだった。同年4月、紀州惣国一揆は秀吉に降伏したが、抵抗した53名は磔刑に処せられた。

 土佐の長宗我部元親は、再び四国統一を成し遂げようと動き出した。長宗我部氏が攻撃をしたのは、伊予の河野氏だった。長宗我部氏は本拠の土佐から、伊予だけでなく阿波・讃岐をも視野に入れ、着々と軍事行動を開始したのである。そこで、秀吉は長宗我部氏の動きを封じるため、1つの提案を行った。

 秀吉は元親に伊予・讃岐を返上するよう命じ、本国の土佐と阿波を加えた2ヵ国を安堵すると伝えた。秀吉からすれば、最大限の譲歩だったのかもしれない。しかし、元親はこの申し入れに納得することなく、伊予の返還を主張した。話は平行線をたどり、ついに2人は対決することになったのだ。

 同年5月、秀吉は長宗我部征伐を行うため、黒田孝高に先鋒を任せ、翌月に淡路へ出陣するよう命令した(「郡文書」)。当初、秀吉が出馬する計画だったが、病により断念せざるを得なくなった。秀吉に代わって、総大将を務めたのが弟の秀長で、副将は甥の秀次が務めた。

 6月18日、三万の兵を率いた秀長は、和泉・堺から四国に向かった。一方の秀次は、3万の兵を率いて明石(兵庫県明石市)を発ち、両軍は阿波の土佐泊(徳島県鳴門市)で合流した。秀長・秀長の率いた兵卒は、合計6万という大軍であった。対する長宗我部氏の軍勢は、2~4万だったといわれている。

 一方、小早川隆景と吉川元春は3万以上の兵を引き連れ、すでに伊予に上陸していた。孝高は宇喜多秀家・蜂須賀正勝とともに、2万3千という大軍を率いて讃岐国屋島(香川県高松市)に到着した。

 こうして秀吉軍は阿波・讃岐・伊予の3ヵ国から、じわじわと元親包囲網を形成し、来るべき戦いに備えたのである。軍勢の数からいえば、秀吉方が圧倒的に優位だった。

 戦いは秀吉方の圧倒的有利なままに進み、長宗我部方は連戦連敗を繰り返した。その結果、7月に降伏して、8月に和睦が成立。土佐一国の知行だけが元親に許された。元親は秀吉の要求を断ったために、阿波を取り損なったうえ、秀吉に人質を供出する羽目になった。

 同時並行で、秀吉は北国攻めも行い、反抗する佐々成政を討つため自ら出陣した。結果、成政は同年8月末日に秀吉に降伏し、剃髪して軍門に降った。仲介したのは信雄である。成政は大坂に移住させられ、秀吉の御伽衆になった。

 圧倒的な軍事力を誇る秀吉が次に狙ったのは、関白の座だったのである。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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