【「麒麟がくる」コラム】いよいよ立ち上がった朝倉義景!織田信長はいかに対処したのか?
■いよいよ朝倉氏が決起
「麒麟がくる」も朝倉氏や浅井氏の登場によって、かなり見ごたえが出てきた。当初、朝倉義景は足利義昭を庇護していたが、やがて義昭は上洛の意思がない義景を見限り、織田信長のもとに身を寄せた。その後、義昭は信長の支援もあって、晴れて入洛することができた。
さて、その後の信長と義景の関係は、どうなったのだろうか。
■信長と義景の決裂
義昭を推戴した信長が畿内で勢力を伸長すると、強い危機感を抱く者も出てきた。越前の朝倉義景は、早い段階から反信長の態度を示していた。信長に反意を持つことは、義昭に対しても同じことである。信長は義景の討伐を決意した。
元亀元年(1570)4月、信長は若狭からの侵攻ルートにより、越前の朝倉氏の領国へ攻め込んだ。織田軍は敦賀郡に侵攻して手筒山城(福井県敦賀市)を落とし、金ヶ崎城、疋田城(以上、敦賀市)の攻略に成功した。首尾は上々であり、すっかり楽勝ムードが漂っていた。
■浅井長政の裏切り
そして、いよいよ朝倉氏の本拠の一乗谷(福井市)に攻め込もうとしたとき、盟友だった浅井長政の裏切りを知った。信長は妹のお市を長政に嫁がせていたので、驚天動地の心境だったに違いない。たちまちにして、信長は窮地に陥った。
同年4月30日、信長は金ヶ崎城に明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉を入れると、朽木越で琵琶湖西岸のルートをたどり、命からがら京都に逃げ帰ったのである(金ヶ崎退き口)。間一髪で危機を逃れたのだ。殿(しんがり)を務めたのは、光秀と秀吉だったという。
ただ、この史料は一色藤長が得た伝聞に基づく情報(『武家雲箋』所収文書)であり、確実なものではないという指摘もある。実際に殿を務めたのは、秀吉だけだった可能性も捨てきれない。
■光秀は若狭に
同年4月30日深夜、京都に戻った信長は、明智光秀と丹羽長秀を若狭に遣わし、若狭武田氏の家臣・武藤友益の母親を人質に取った。人質を取るということは、同盟関係を結んだ証でもある。当時、若狭武田氏は、家中の動揺で危機に瀕していた。
2人は大飯郡の武藤氏の城を破却すると、5月6日に現在の福井県小浜市から滋賀県高島市を経由(針畑越え)して京都に戻った。城を破却したのは、武藤氏が恭順の意を示した証拠でもある。城は軍事施設であり、権力の象徴でもあった。
■信長の狙い
信長が2人を若狭に遣わした理由は、浅井氏の裏切りによって、岐阜・京都間や越前方面の通路が塞がれたため、湖東方面の通路を確保しておく狙いがあったという。たしかに通路の確保は、合戦時によく行われていた。
普通に考えると、単に2人が往復するだけで、通路を確保することなどできないだろう。武藤友益は信長が兵を挙げたとき、朝倉方に与していた。つまり、信長が武藤氏を警戒するのは当然のことだった。
信長は友益が反旗を翻したので、いち早く兵を送り込んで降参させる必要があった。友益から人質を取って手なずけることにより、態勢を立て直そうとしたのだろう。信長は朝倉氏を牽制すべく、いち早く手を打ったのである。
■信長と浅井氏の対決
その後、信長は浅井氏への対策として、湖東から湖南方面にかけて家臣を配置した。宇佐山城(滋賀県大津市)に森可成、守山(同守山市)に稲葉一鉄父子と光秀家臣の斎藤利三、永原(同長浜市)に佐久間信盛、長光寺(同近江八幡市)に柴田勝家、安土(同上)に中川重政を置き、浅井軍からの攻撃に備えた。
一方の浅井長政は、鯰江城(同東近江市)に兵を入れるとともに、近隣の市原野郷の助力を得て、信長が岐阜に戻る通路を塞いだ。両者ともに、すっかり総力戦の様相を呈していた。
その後のことは、お楽しみに取っておこう。